完了しました
火箸風鈴 ―生きる技と伝統 (姫路市)




平安期から続く
明珍家は12世紀半ばに天皇に
明治に入って甲冑の需要が減ると「千利休のために火箸を作った」という故事にならい、火箸を手がけるようになった。
しかし、戦争中は鉄が入手できず、電化製品の登場で生活が様変わりした高度成長期には火箸の需要が低減した。
「生きるか死ぬか。そんな瀬戸際で火箸を風鈴にするアイデアを思いついた」。そう明かす先代の
長男の宗久さん(51)、次男の宗裕さん(47)、そして宗理さんから継いだ三男の宗敬さん。一線を退いた今も工房に立つ宗理さんに弟の巧さん(74)を加えた5人が
◇
仕事場は約100平方メートル、畳60枚ほどの広さだ。その中央に座る炉。1300度のコークスが燃えさかる中に、丸い鉛筆状の鉄材を投じる。
炎の中から取り出した赤みを帯びた鉄を金床に乗せ、
「継ぐつもりはなかった。でも、懸命に働く親の姿に『助けなければ』という思いが幼いころから胸の片隅にあった」と話す宗敬さんがこの道に入ったのは、22歳のときだった。
体力が足りず、初めのころは鉄をたたく鎚の上げ下げさえ思うようにできなかったが、何年も続けるうちに、父や叔父と同じ音を響かせるようになった。
「スピードやリズム、力の入れ加減……。目に見えない何かが受け継がれていると感じた」。火箸はミュージカルやコンサートで演奏道具として用いられ、米国の大学に招かれて鍛冶の実演も披露した。
◇
宗敬さんらが仕上げた火箸4本を、ひもで結ぶのは宗久さんの役目。太さや長さが少しずつ違い、4本のバランスが1ミリずれても風鈴本来の気品ある音色を出すことはできない。繊細な手作業を受け持つ兄の姿に宗敬さんは「目立たないが、最も要のポジション」と実感する。
同じ姫路市内に「明珍
鋼の鍛錬術を身につけるため、弟が人生を選択したのと同じころ、山陰の刀匠に弟子入りしたことから作刀に魅了され、刀工の道へ進んだ。宗敬さんが作った火箸と宗裕さんの手がけた太刀がコラボした作品は地元の美術館で披露され、評価を集めた。
宗理さんを長年支えてきた母・久美子さん(77)も「いろんなことがあったけれど、今が一番幸せ」。車いすに乗る今も、男たちを陰でサポートしている。
◇
「目の前の仕事に全力で打ち込みながら、新たな可能性にも挑みたい」。宗敬さんの下、4人の匠がそれぞれの技量と持ち味を発揮し、4本の火箸が風鈴へと姿を変える。
伝統とともに、家族とともに――。若き当主が率いる〈チーム明珍〉が鋼の絆で伝統をつなぐ。(北野浩暉、おわり)