身勝手な父への愛憎――「武士の農法」門井慶喜

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門井慶喜さん
門井慶喜さん

 父の名は仙といいます。ええ、そうです。「仙人」「仙境」の仙ですけれども、そんなことばから想像できるような清潔な心、高らかな精神とは、父の一生は正反対でした。

 俗の俗たるものでした。事業欲、と言うと何やら恰好かっこうもつきますが、要するに、

 ――お金がほしい。

 ――有名になりたい。

 そのことに齷齪あくせくしたのです。

 何ですか、ふしぎな感じですね。私は次女です。こうして思いがけず二十一世紀のみなさんへお話しする機会が得られたからには、単なる身内の話にはしたくない。ぜひ他山の石にしてほしいというadvice……えっと、そう、教訓として、ちょっと父の生涯をふりかえりたいと思います。みなさんは父のようにならないでください。

父が生まれたのは天保八年(一八三七)七月六日、いまでいう千葉県佐倉市です。歌人の俵万智さんという方が、

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 と現代の女性らしく軽やかに詠んだそうですが、その日ですね。小島なにがしという佐倉藩士の八男だったそうです。

 そのころの佐倉は、

 ――学都。

 などと呼ばれて日本中にその名がとどろいていたと、後年、父は私に自慢しました。もちろん話半分に聞くべきですが、父が英語という、当時最新の語学をそこで勉強したことは事実です。少しは成績もよかったらしい。数えで三十歳のとき徳川幕府の通訳となり、外交使節の船に乗り、その目でアメリカを見ることになりました。

 どうして佐倉藩士が幕府の船に? いい質問ですね。それは結婚したからです。結婚相手の津田はつというのが、私の母ですが、幕臣の娘だったのです。父はいわゆる婿養子になり、その姓も、小島から津田に変わりました。アメリカゆきの船には、慶応義塾を創立した福沢諭吉さんもいらっしゃり、こんな自慢をされたとか。

「津田君、洋行ははじめてかね」

「はじめてです」

「俺は三度目だ。向こうじゃ金が必要だぞ」

「はあ」

「俺はある。日本でうんと本を売ったからな」

「その金で、何を買います」

「本」

 福沢さんは、いまは一万円札の肖像になっているとか。どこまでもお金に縁がある人なのですね。帰国後、父は、築地ホテルに就職しました。

 やっぱり英語が話せるから……と言いますのは、当時の築地は居留地といいまして、東京の外国人はそこにしか住むことができませんでした。

 彼らを訪ねて来る客もおなじだから、宿泊施設が必要になり、築地ホテルが建設された。父はそこで支配人のような仕事をしたのでしょう、来る日も来る日も、外国人のためにservice……奉仕したのです。

 そこで父は、奇妙な光景をまのあたりにしました。

 いや、みなさんの目には奇妙でも何でもないでしょうが、客たちが、キャベツや玉ねぎやアスパラガスやパセリをたくさん食べる。煮たり焼いたりもするけれど、生でも食べる。

 これで父の血がさわいだ。もちろん父もアメリカを見ていますから、そういう食事自体はめずらしくないはずですが、私の想像では、むしろそれらの野菜の仕入れ値がえらく高いことを会計担当者に聞いて、

 ――自分で育てれば、大もうけ。

 これが父のサラダ記念日です。父は郊外に土地を買い、勇躍、栽培に励みました。

 アメリカから種も取り寄せたし、果樹にも挑戦しましたが、しかし何ぶん素人です。なかなかうまく行かなかったところへ、たまたま旧知の方から、

 ――ウィーン万博を見て来い。

 という話があり、現地でオランダの園芸家ホーイブレンク氏と出会い、いろいろのことを学びました。

 そのノートを整理して、帰国後『農業三事』という題をつけて出版したのは、これはもちろん旧幕時代の、福沢さんの『西洋事情』のまねをしたのでしょう。

 何しろあれが売れに売れたのは、ヨーロッパ最新の現地情報をふんだんに盛りこんで易しく書いたのが一因でした。父の本もおなじつくり。福沢さんほどではないにしろ、数万部を売ったというからthe best sellerですね。ベストセラー。父はこれで大金を得ました。有名にもなりました。

 父はそれで学校をつくりました。一種の農学校ですが、やっぱり福沢流ですね。けれども福沢さんとは違って、父はあまりにも教育家に不向きでした。

 要するに身勝手なんです。独自に農具を開発し、農法を考案し、学生たちへ強要した。世間へ派手に宣伝した。アスパラガスなどは多少うまく行ったようですが、失敗のほうが多く、経営難におちいりました。

 貯金はなくなり、無名にもどり、その学校はいまはもうありません。父の学校はとうとう慶応義塾にはなれなかったのです。

 「士族の商法」ということばがあります。

 旧幕のころ武士だった人たちが、御一新後、生活のため慣れない事業を起こして没落したことを揶揄やゆをこめて言うものです。父はまさしくそれでした。いや、この場合はむしろ士族の「農法」というべきでしょうか。私に言わせれば自業自得ですけれども。

 私ですか。私は次女です。やっぱり旧幕のころ生まれました。生まれたのが男の子じゃなかったというので父はひじょうに不機嫌で、七日すぎても名前をつけることをしなかった。ここでも身勝手。しかたなく母が、まだ産後の肥立ちもじゅうぶんでなかったのに、枕もとの盆栽の梅がちらほら咲いたのを見て、うめと名づけてくれたのです。

 それ以後も、私への愛情のうすさは格別でした。私は八歳のとき家を出された、というより日本そのものを出されました。政府が不平等条約の改正交渉を目的とした使節団、いわゆる岩倉使節団をアメリカ、ヨーロッパに派遣するに際し、あわせて女子留学生を募集したのですが、父はそれに応募したのです。

 留学生は五人いました。もちろん私が最年少。世間から、

 ――両親は、鬼だ。

 などという非難を受けました。

 母は心を痛めました。父はよほどうれしかったでしょう。当時はもう築地ホテルの勤めを辞めていたと思いますが、世間の目が引けましたから。そういう人なんです。おかげで私は親もとを離れ、見知らぬ大人たちとともに、十年間もアメリカで生活することになりました。

 帰国時には十八歳。日本語をきれいに忘れていました。いまもとっさに英語が出てしまいます。もっともまあ、そのおかげで私は私の名を挙げることができたわけですが。私もまた東京に女子英学塾という学校をつくり、教育家の人生をあゆみだしたのです。

 父にそっくり? とんでもない。おかしなことを言わないでください。私は父とはちがいます。だいたい私の学校は、いまもちゃんと残っているではありませんか。名前は、そう、津田塾大学と変わりましたけれど。

 ええ、そうです、私の名前は津田梅子。うめから改名したんです。何かふしぎな気がしますね。私は福沢さんのようにお金持ちじゃなかったのに、福沢さんのように、もうすぐ五千円札の肖像になるんだそうで。いえいえ、何をおっしゃいます。うれしくなんかありません。父のような目立ちたがり屋ではありませんから。まあ母や弟には、ときどき性格がそっくりと言われますけど。

 晩年の父は、母とともに鎌倉に住んでいました。

 何だかんだで七十をこえました。る日、東京に出て、帰りは品川から汽車に乗りました。終点の横須賀に着いて乗客がみんな降りてしまうと、父だけが座ったまま眠っていた。

 車掌が体をゆすったけれど、目をさますことがなかった。それが父の旅立ちでした。死ぬときさえも目立ちたがり屋。ひどい身勝手。おかげで母は、さよならを言うことができませんでした。

 私は私で、子供のころアメリカに出してくれたことへ「ありがとう」と言うことができなかった。もっといろいろ話したかった。みなさんは父のようにならないでください。

挿画・寺門 孝之
挿画・寺門 孝之

 かどい・よしのぶ 1971年、群馬県生まれ。同志社大文学部卒。2003年に「キッドナッパーズ」でオール読物推理小説新人賞を受け、デビュー。18年「銀河鉄道の父」で直木賞を受賞。著書に「家康、江戸を建てる」「東京、はじまる」「銀閣の人」など。大阪府寝屋川市在住。

◎ホールでのイベントは中止

質問や感想募集します

 この掌編小説は門井慶喜さんの書き下ろしです。本作をもとに、門井さんと語り合うイベント「よみうり読書 芦屋サロン」を予定していましたが、新型コロナウイルスの感染拡大防止のためホールでの実施は中止し、代わって記者がインタビューします。内容は、11月の新聞紙上と読売新聞オンラインでお伝えします。

 インタビューに先立ち、みなさんの質問をお寄せください。小説の感想、創作にまつわる疑問など何でも結構です。名前と年齢を明記のうえ、ファクス(06・6881・7191)または電子メール(o-dokusyo@yomiuri.com)でお送りください。郵送の場合は、〒530・8551(住所不要)読売新聞大阪本社「読書サロン」事務局。締め切りは今月31日(必着)。問い合わせは事務局(06・6366・1683)へ。

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1554093 0 よみうり読書 芦屋サロン 2020/10/16 05:00:00 2020/10/16 18:35:01 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/10/20201016-OYTAI50015-T.jpg?type=thumbnail

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