【未来世代】 障害発信 もう隠さない、「車いすモデル」笑顔再び
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日置有紀さん 31
あの日のスポットライトのまばゆさは一生忘れない。2017年3月18日に福岡市で開かれたファッションショー「福岡アジアコレクション」。日置有紀さん(31)は、生まれて初めてランウェーに車いすを進めた。
赤と金のドレスを着ての約30メートルの往復。首から下は力が入らない体で懸命に背筋を伸ばした。観客約7500人の視線が一身に集まっているのを感じた。
ステージを下りると、大きな拍手が聞こえてきた。涙があふれた。一人のモデルとして認められた喜びをかみしめた。
兵庫県在住の日置さんは「車いすモデル」として、テレビや映画への出演を重ねる。脊髄の難病を患い、障害の等級は最も重い「四肢体幹機能障害」。両腕にも
発症したのは18歳の時だ。理学療法士の資格を取るため専門学校で学んでいた。
1冊の本の影響だった。「1リットルの涙」。1986年に出版された、体の自由を失っていく進行性の難病で亡くなった少女の15歳からの闘病の日々を書き
〈病気は、どうしてわたしを選んだのだろう〉。その思いをこらえ、懸命に生きる姿に心を打たれた。
「病気の人に寄り添いたい」と、当時、流行していた交流サイト「mixi(ミクシィ)」の交換日記で友人らと夢を語り合った。
だが病魔に襲われたのは、自分自身だった。
最初は左足のしびれ。次に右足、そして両手。症状は容赦なく広がった。足を引きずり、つえを使い、学校は3年で卒業したが、直後に手術を受けた。首から下は動かせなくなった。
「あなたの担当です」。リハビリ先の病院で紹介された理学療法士は、専門学校の同級生だった。真新しい制服と初々しい表情は、とても直視できなかった。
リハビリもやめ、暗くした自宅の部屋のベッドで天井を見つめ過ごした。友人とのネットでのやりとりも遮断した。トイレも食事も母親がいないとできない。集めた洋服も着られない。「死にたい」とつぶやいた。
変わるきっかけは新たに仮名で始めたブログだ。
惨めな自分を知られたくない。けれどわかってほしい。そんな胸の内を伝えたくて指にペンをくくりつけ、キーボードに向かうと、ある日、メッセージが届いた。
「リハビリでやった方がいいことある?」。送り主は全身麻痺の同年代の女性。理学療法士を目指していたことを読み、尋ねてきたのだ。リハビリのやり方や装具の使い方を教えると返信があった。「ありがとう!」
1リットルの涙の少女を思い出した。ネットも携帯電話もない時代。寝たきりは家で孤独に耐えることを意味した。
「でも今の時代の私は、あきらめることなんてない」
障害者に便利なグッズ、車の免許を取ったこと。積極的に発信した。
すると25歳の時、結婚式のモデルの依頼が舞い込んだ。足が不自由でも立ち姿で挙式できるよう、座面の高さが調整できる車いすのPRだった。
撮影に臨み、思いがけない感動を受けた。自分の足で立っていた時の視界に戻ったのだ。忘れかけていた感覚だった。「新郎新婦が同じ目線で」という、作り手の優しさがうれしかった。
この後、「車いすモデル」の名刺を作った。ブログも実名に変えた。
もう隠したりはしない。私だから感じ、伝えられることがあると信じている。(今岡真 40歳)
共生社会に期待
健常者と障害者の「共生社会」を目指す方向性は21世紀の大きな流れだ。2006年に「障害者の権利に関する条約」を国連が採択し、日本は14年に批准。16年には障害者差別解消法が施行された。
インターネットを通じ、多くの人が「多様性」に触れる機会が増えたことも、動きを後押ししている。
障害者団体でつくるNPO法人「DPI日本会議」(東京)の尾上浩二副議長は、「デジタルネイティブ」と呼ばれる世代の特徴を、「障害を隠さず、発信する人が目立つ」とし、「その力が共生社会を作る大きなうねりになれば」と期待する。