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中四国に甚大な被害をもたらした西日本豪雨から4年となり、各地で追悼行事が営まれた。愛する家族を失った遺族の悲しみは時がたっても癒えることはない。それでも前を向き、経験を忘れないとの思いを誓った。

妻の遺影に手合わせ…岡山・真備
「行ってくるよ」。岡山県倉敷市真備町の大戸稔さん(88)は6日、豪雨から1年後に亡くなり、災害関連死に認定された妻・利枝さん(当時82歳)の遺影に手を合わせ、追悼式に出席した。
4年前の7月6日夜、夫婦の暮らしは一変した。真備の町を豪雨が襲い、小田川などの堤防が決壊、自宅の1階が浸水した。危険を察知した大戸さんは、利枝さんと2階に逃げた。時間を追うごとに家の中にも水が流れ込んだ。「大丈夫かな。病院にいけるんやろうか」。肺や心臓に持病のある利枝さんの不安に、大戸さんは「大丈夫や」と励ますしかなかった。
2階近くまで迫った水が引いたのは、翌日の夜。その後、水没を免れた2階で生活を続ける中、利枝さんの体調は急速に悪化していった。死と隣り合わせの恐怖を感じたことや、慣れない暮らしから心身ともに疲弊していき、入退院を繰り返すようになった。
被災から約1年後の19年6月、利枝さんは亡くなった。直前に病院で見舞った際、「良いことは少なかったな、お父さん」という会話が最後だった。約60年前に結婚してからずっと一緒だった。2人の子どもにも恵まれた。しかし、大手化学メーカーでの仕事が多忙な中、苦労をかけ寂しい思いをさせていたのかもしれない。申し訳ないという思いで涙が止まらなかった。

その後、災害関連死に認定された利枝さんに孤独を感じさせまいと、大戸さんは一日も欠かさず朝と夜に利枝さんの遺影に手を合わせる。「自分で家事をやるようになって大変さがわかったよ」「毎日忙しくて趣味のグラウンドゴルフをやめた」など日々の出来事を報告するのも日課だ。
被災した自宅は修理し、一人で暮らしている。県外で暮らす子どもからは「一緒に住もう」と何度も提案されたが、思い出が詰まった家を離れられずにいる。
昨年まで「一緒に逝けばよかった」と落ち込む日が多かった。しかし、夢に利枝さんが出てくるようになり、近くにいるような気もする。追悼式に出席した大戸さんは利枝さんにこう語りかけた。
「3年たっても悲しみは消えない。お前のいない生活はつまらない。でも生きたかったお前の分まで、長生きするよ」(下林瑛典)

犠牲の母と叔母に誓う…広島・坂
同居する母と叔母を亡くした広島県坂町小屋浦の自営業、水尻忠道さん(60)は6日朝、再建した自宅近くの慰霊碑を訪れ、黙とうをささげた。「犠牲になった人たちの思いを無駄にしないよう、絶対に風化はさせない」と誓った。
小屋浦地区では16人が死亡、1人が行方不明になった。水尻さんも同居していた母のキク子さん(当時85歳)とその妹の岡田須磨子さん(同82歳)を失った。


「すごい音がして家から出ようと思っても戸が開かない」。4年前の6日夜、広島市内で買い物をしていた水尻さんに、キク子さんから電話があった。車に乗り込んだが、町内へ向かう道は通行止めになり、家に戻れず時間だけが過ぎた。
「(ペットの)ウサギの籠まで水が来た」。日付が変わり、電話口からは悲痛な叫びが漏れた。午前4時頃には電話が通じなくなった。地区では砂防ダムが決壊し、あふれた川の水で道が寸断され、自宅に戻れたのは3日後だった。救助隊とともに土砂に襲われた家に入ると、亡くなった2人が見つかった。
翌月、広島市安芸区の仮設住宅に移り、ボランティアで町内の土砂撤去作業に没頭した。車で自宅前を通るたびに、父を亡くした7歳から生活を支えてくれた母との思い出が脳裏に浮かんだ。無我夢中で汗を流しているうちに「ここに必ず戻る」と思うようになった。
今年2月、自宅が完成した。一人になってしまったが、時間があれば2階のベランダから復興する町を眺めている。更地と新しい家の両方が目に入り、寂しさが込み上げることもある。
最近は町内の小学校で、防災教室を手伝うようになった。「子どもたちが親になった時、災害への備えを教えられるようにせんといけん。次の災害で犠牲者を出さないよう経験を伝えていくのが生き残った自分の役割だ」(豆塚円香)
災害関連死
建物倒壊や浸水といった直接的な災害による被害ではなく、避難生活に伴う体調悪化などで死亡すること。災害弔慰金支給法に基づき、医師らでつくる自治体の審査会が認定する。西日本豪雨では、広島、岡山、愛媛3県で計82人が災害関連死に認定されている。