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[道あり]元女子バレーボール全日本代表 西川樹理さん(旧姓・横山)<4>モスクワ不出場 目標失う

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 合宿を張っていた北海道別海町の宿舎で、大広間に集合がかかった。1980年6月。目前に迫ったモスクワ五輪に向けて調整を続けていた選手に、小島孝治監督(故人)が告げた。

 「不出場が正式に決まった」。ソ連のアフガニスタン侵攻に対する抗議で、米国や日本、西ドイツなどが五輪ボイコットを表明。日本バレーボール協会は個別参加を目指したが、国際オリンピック委員会(IOC)に却下されたのだった。

キューバとの国際試合でスパイクを決める西川さん(右)(1981年6月)
キューバとの国際試合でスパイクを決める西川さん(右)(1981年6月)

 コートに立つことなくついえた、2大会連続金メダルの夢。「何のために頑張ってきたのか」。頭の中が真っ白になり、涙がとめどなくあふれる。食事は喉を通らず、練習も打ち切られて翌日からは観光となった。美幌峠で撮影した集合写真が手元に残っているものの、記憶はほとんどない。屈斜路湖など、北の大地の雄大な絶景さえ、何も心に響かなかった。

 76年のモントリオール五輪後、世代交代が進んだ全日本。その中で人気と実力を備えたエースとしての地位を不動のものとし、所属していたユニチカを率いていた小島監督が就任すると主将も任された。チーム作りは着実に進み、79年にモスクワで行われた国際大会で金メダルを獲得。本番への自信を確かなものとする一方、ある決意を固めていた。

 「モスクワ五輪を最後に、現役を引退する」

 バレーボール人生の全てをかけて完全燃焼するつもりだった。それがかなわず、失意のまま北九州市の実家に帰った。テレビでモスクワ五輪の試合を見ても頭に入らず、「ちっとも面白くない」。このまま引退するか、まだやり残したことはないか――。翌年にはワールドカップ(W杯)が控えていた。自問自答の末、「このままでは悔いが残る」と現役続行を決めた。

 「もう1年頑張ろう」と臨んだW杯は2位で、ケガで思うようにプレーできなかった。さらに引退を延ばし、82年の世界選手権では4位。「もう、十分にやりきった」と、27歳で引退を表明した。一時代を築いた名アタッカーは、静かにユニホームを脱いだ。

=2018年11月9日 読売新聞地域面(西部本社版)掲載=

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2224809 0 道あり 2021/07/21 16:24:00 2021/07/21 16:24:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/07/20210721-OYTAI50006-T.jpg?type=thumbnail

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