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[解藩知県]プロローグ「廃藩置県150年」

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 全国261の藩(大名領)が廃止されて政府直轄の県となった1871年(明治4年)の廃藩置県から150年を迎えました。九州・山口の各地を訪ねて、旧藩の遺風や県の歩みをたどります。=読売新聞文化面(西部本社版)で原則土曜日に掲載しています=

Q.九州・山口の藩は?

  A.外様の大藩多く

 関ヶ原の戦い(1600年)に勝利した徳川家康は、敵対した西軍大名の領地を没収して東軍大名を全国に再配置した。諸大名は将軍と主従関係を結びながら、領地である藩を半ば独立国として治めた。

 江戸から遠い九州・山口には、幕府の脅威となり得る石高(土地の生産高)30万石以上の外様大名が置かれた。毛利家の長州藩(36・9万石)、島津家の薩摩藩(72・8万石)は関ヶ原の西軍大名が存続した数少ない例で幕末に倒幕を主導する。細川家の熊本藩(54・1万石)、黒田家の福岡藩(47・3万石)、鍋島家の佐賀藩(35・7万石)も本来豊臣系の外様大名だ。

 対馬、平戸、大村、飫肥(おび)、人吉などの外様小藩は、戦国時代以前から土着していた大名。対馬藩は朝鮮国との貿易を独占した。大分県域はかつて戦国大名大友氏の領国で、同氏の領地没収で小藩や幕府領、諸藩の飛び地が混在する形になった。

 関ヶ原以前からの徳川家臣である譜代大名の藩は、小笠原家の小倉藩(15万石)が筆頭で、ほかに中津、唐津、延岡、島原藩など。小倉藩は幕末の長州征討の最前線となり、逆に長州に侵攻されて小倉を占領された。

 西洋や中国との貿易が認められた長崎や、天草諸島、豊後などには幕府領が置かれた。

Q.廃藩の目的は?

  A.中央集権化一挙に

 王政復古を掲げた明治政府は、諸藩の軍事力で幕府を打倒した。このため当初は藩の存続を前提としており、諸藩の代表でつくる会議(公議所)が設けられた。政府直轄地は旧幕府領に置いた府と県に限られた。

 1869年(明治2年)には、天皇中心の国家を実現する立場から、諸藩の領地と領民を天皇に返還する版籍奉還が行われた。しかし知藩事(旧藩主)をトップとする藩体制は事実上温存され、多くの知藩事は天皇から領地が再交付されるものと期待していた。

 ところが71年7月14日、皇居に集められた知藩事たちの前で、突然「藩を廃し県と為(な)す」という天皇の詔書が読み上げられた。既存の府県を含めて全国は3府302県の政府直轄地となった。知藩事は職を解かれ、東京転居を命じられた。

 勝田政治・国士舘大教授(日本近代史)によれば、廃藩置県は7月9日に西郷隆盛と大久保利通、木戸孝允ら少数の薩摩、長州出身者の会談で合意された。岩倉具視ら最高首脳や他藩出身者は関与していない。

 突然の廃藩決定の背景には、政府内で人事や組織改革を巡り、藩の指導者間の対立が深刻化していたことがある。「西郷らは藩を残したままでの中央集権化には限界があるとみて、一挙に廃藩を断行した。大問題を提起することで政府内の統一を図る目的もあった」と勝田教授はみる。

 天皇の詔書は廃藩置県を「億兆(国民)を保安し」「万国と対峙(たいじ)」するためとしている。国民生活の安定を図るとともに、西欧列強と渡り合うための中央集権化だったことがわかる。

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2183985 0 解藩知県第1部遺風 2021/07/06 18:00:00 2021/07/06 18:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/07/20210706-OYTAI50032-T.jpg?type=thumbnail

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