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[解藩知県]遺風<6>福岡・吉富 県境の川「両岸は一体」

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 周防灘に注ぐ山国(やまくに)川は東西で大分、福岡県を分かつ県境の川だ。河口西側に位置する福岡県吉富町役場のそばにある標高30メートルほどの天仲寺公園に、中津藩を治めた小笠原家の初代藩主・小笠原長次らの墓が周囲を一望するようにたたずむ。

小笠原長次の墓のそばで「中津藩への愛着を感じさせてくれる場です」と語る太田さん(福岡県吉富町で)
小笠原長次の墓のそばで「中津藩への愛着を感じさせてくれる場です」と語る太田さん(福岡県吉富町で)

 地元の吉富歴史文化の会は、長次をしのぶ墓前祭(5月29日)を続けている。長次は大規模なため池の築造で農業用水を確保するなどした名君だ。同会の会長、太田栄さん(79)は公園に立ち、「この高台から末永く見守ろうとしたのでしょう」と思いをはせる。

 中津藩は川向こうの大分県中津市を城下町とした譜代藩だ。同市歴史博物館の三谷紘平学芸員によると、川の両岸を藩領とすることで、藩主らは、川を活用した交通、流通の利便性を得るとともに、両岸の肥沃(ひよく)な土地を一手にできる利点があったという。

 廃藩置県後の1876年(明治9年)の府県再編で、古代に端を発する「郡」の境にそって旧中津藩領の大半が大分県域となり、川の西側は福岡県域として切り離された。

 県境を越えた市町合併の話が浮上したこともある。吉富町と福岡県豊前市は2007年に合併に向けた法定協議会を設置したが、同年の同町長選で当選した新町長(当時)は、大分県中津市などとの広域合併の可能性も検討したいとする意向を表明。紆余(うよ)曲折の末、結局は合併自体が実現しなかった。

 旧中津藩領だった吉富町や福岡県上毛(こうげ)町の住民は、今も中津への親しみが深い。大分県側に高校生が通学し、買い物で訪れる人も多い。

 大分県側も親近感を持っている。県境を越えた防災活動に取り組む中津市のNPO法人「レスキュー・サポート九州」の理事、木ノ下勝矢さん(72)は、川を挟んだ両県側から引き合う大綱引き大会や、県境を巡る自転車レース大会を行ってきた。木ノ下さんは、廃藩置県ならぬ「廃県置藩」を提唱してきた。県の枠組みにとらわれずに旧藩のエリアでまとまろうという発想で、「歴史を共有している一体感は強い」と語る。

 「川の両岸を一体のものとした小笠原家藩主たちの思いが、今もこの地に息づいている。県は異なるが、福岡側の我々も中津藩なのです」と吉富歴史文化の会の太田さんは話している。(北川洋平)

 〈中津藩〉豊臣政権期の黒田家、江戸時代初期の細川家の支配を経て1632年、譜代大名小笠原家の中津藩が成立した。1717年に藩主は譜代大名奥平家に交代した。奥平時代の石高(土地の生産高)は、備後(広島県)や筑前(福岡県北西部)の飛び地も含めて10万石。

=2021年2月27日 読売新聞文化面(西部本社版)掲載=

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2184140 0 解藩知県第1部遺風 2021/07/06 18:47:00 2021/07/06 18:47:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/07/20210706-OYTAI50048-T.jpg?type=thumbnail

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