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江戸時代、幕府の直轄領(天領)では、代官や奉行の統治のもとで藩とは異なる独自の文化が花開いた。九州の幕府領を統括した日田(大分県日田市)、鎖国下にも海外に開かれていた長崎など、各地に残る天領とその遺風を紹介する。

大分・日田 豪商 教育活動に投資
筑後川の支流が集う盆地に位置する大分県日田市は、かつて九州の天領の中心として栄えた。豆田町には南北2筋、東西5筋の通り沿いに江戸時代から残る商家が軒を連ね、大勢の観光客を迎えている。
3月に8年かけた修復工事を終えた草野家住宅(重要文化財)は18世紀にさかのぼる商家建築で、店舗や座敷、土蔵を公開している。「建物の維持には苦労も多いが、九州の中心だった歴史の一部として守り続けていきたい」。草野家の子孫で豆田観光協議会の会長も務める草野義輔さん(74)は話した。
日田に幕府の代官所が置かれたのは1639年で、1767年には九州全体の天領を管轄する郡代(西国筋郡代)に格上げされた。市立博物館の行時志郎館長は、「日田は北部九州のほぼ中央にある交通の要衝で、外様大名の監督に都合がよかった」と話す。

草野や広瀬、千原家など豆田の豪商は郡代から預かった公金を元手に
咸宜園教育研究センターの原田弘徳さんは「天領だった日田は武士が少なく町人中心だったため、身分を問わない私塾ができたのではないか」と話す。
明治になると日田商人は天領としての特権を失ったことで没落し、林業の町に姿を変えた。天領日田の歴史を見直す動きが豆田の住民の間で広がったのは、1970年代からという。近代の開発を免れ、空襲も受けなかったため歴史的街並みが残っていたことが大きかったという。
草野家に伝わるひな人形を公開したのをきっかけに毎年2~3月の天領日田おひなまつりが始まり、11月の日田天領まつりでは郡代の着任行列を再現している。戦後廃れていた日田祇園祭の
長崎 華僑の風習 一大行事に

長さ250メートルの十字路に、中華料理店や中国雑貨屋など約40店舗が並ぶ長崎市の新地中華街。新地とは江戸時代に中国貿易の倉庫区域として造成された人工島で、明治に埋め立てられ中華街となった。
鎖国下にあっても中国、オランダ船の来航が認められた天領長崎には、十数人のオランダ商館員に対し、数千人の中国人が暮らしていた。「長崎には今も華僑コミュニティーが色濃く残っています」。幕末に福建省から移ってきた華僑の子孫で、中華街でホテルを経営する陳東華さん(78)は語った。
陳さんによると、戦前にルーツをもつ長崎華僑は現在300~400人ほど。市内には江戸時代に福建出身の華僑によって創建された崇福寺、航海安全の神を祭る天后堂などが残っており、華僑が中国盆会などの祭礼に携わっている。日中親善にも尽力しており、陳さんの祖父らが辛亥革命を支援した縁から、長崎福建会館の前には上海市が寄贈した孫文の銅像がたつ。
長崎くんちを代表する
陳さんは「華僑の歩みは、長崎の歴史と文化に影響を与えてきた。日中交流の懸け橋としても役割を果たしていきたい」と語った。(柳原正和)
計16万石 有力大名に匹敵
九州の天領は現在の鹿児島県を除く各県に点在していた。幕末の石高(土地の生産高)は有力大名に匹敵する16万石に達した。これを統括したのが日田の西国筋郡代で、四日市(大分県宇佐市)、富岡(熊本県苓北町)、富高(宮崎県日向市)に出張所というべき代官所(陣屋)が置かれた。
四日市陣屋のあった宇佐市周辺の周防灘沿岸では江戸時代後期に大規模な新田開発が行われた。工事を監督したのは広瀬淡窓の弟久兵衛で、同市にはその名にちなむ久兵衛新田という地名が残る。四日市の陣屋は1868年に焼失し門だけが現存している。
富岡陣屋は島原・天草一揆(1637~38年)後に天領となった天草諸島の統治拠点として富岡城三の丸に置かれた。減税を行った初代代官鈴木重成の善政が語り継がれており、各地に「鈴木さま」と呼ばれる神社や
富高陣屋は日向国(宮崎県)に点在する天領を統括した。日向市役所近くの幸福神社は陣屋の鬼門
これらの天領とは別に、長崎は長崎奉行が治めた。重要都市や鉱山に置かれた遠国奉行の筆頭と位置づけられ、貿易の監督やキリシタン監視を担った。奉行所(立山役所)跡にたつ長崎歴史文化博物館には、当時の石段や石垣が一部現存。オランダ商館が置かれた出島では復元整備が進んでいる。
