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沖縄本島から東に約360キロ離れた北大東島は、サンゴ礁が隆起してできた人口540人の島だ。周囲を高さ15メートルほどのゴツゴツした断崖絶壁に囲まれ、フェリーも接岸できない。そのため、船を利用する場合は海岸近くに停泊し、人はクレーンでつり上げたかごに入って乗船する。

その島に約3年前、待望の漁港が整備された。漁師たちはそれまで、漁の際はクレーンで1隻ずつ上げ下ろしする作業を強いられていた。操作員の確保が必要で、1日の出漁時間は7時間ほどに制限された。豊かな漁場に囲まれながら、「本土から来た漁船が漁を続けているのに、指をくわえて帰るしかなかった」。北大東村水産組合の組合長・
島民は漁港整備を長年要望してきたが、硬い岩盤をくりぬく難工事のため、実現には時間を要した。国の補助事業に決まり、沖縄県が着手したのは2008年度。11年の歳月を経てようやく完成した。
開港で島の漁業は一変した。20年の漁獲量は83トンとそれまでの約3倍に急増し、島外から20~30歳代の若手漁師4人も移住した。サトウキビの刈り取りなどにも従事しながら漁師を約30年間続けてきた知花さんは「ようやく他地域と肩を並べられる環境が整った。専業漁師としてやっていける」と手応えを語る。
沖縄県には本島以外に37の有人離島があり、県人口の1割弱にあたる計約13万人(2019年)が暮らす。本島とは様々な格差があり、「島ちゃび(離島苦)」と呼ばれてきた。
戦後の米統治下では、米軍基地の安定運用が優先され、特に離島は電気や水道など最低限の社会基盤が整わなかった。進展したのは1972年に本土復帰してからだ。島々のなりわいを支える港も順次整備されたが、北大東のように取り残された島もあった。
那覇市の北西約60キロの
各家庭には今も、大きな岩をくりぬいて雨水をためる器「トゥージ」が残る。島で民宿を営む玉寄スミ子さん(83)は「地下水は塩辛く、雨水ばかり飲んでいた。水を無駄にしないよう、小さなひしゃくですくって顔を洗った」と振り返る。

苦境を目の当たりにし、長年にわたり離島振興に尽力したのが、初代沖縄開発庁長官の山中貞則氏(故人)だった。復帰2年前から全ての有人離島を回り、「離島ゆえの苦しみに耐えてきた人々のなんと多いことか」と、自著「顧みて悔いなし 私の履歴書」に記した。その経験は、沖縄振興予算の根拠となった沖縄振興開発特別措置法に反映された。
この半世紀で離島の生活基盤は整ってきたが、小規模な離島の多くは人口が減り続けている。高校がなく、中学卒業と同時に子どもが島を離れることも一因だ。そのまま島の外で人生を歩む若者は多い。
一方で、島に戻って地域の経済的自立を探る人もいる。
宮古島の西約70キロ、約1100人が暮らす多良間島は、5年前から人が1割以上減った。そんな島を盛り上げようと、那覇市で会社員をしていた波平
「ビジネスの種はいっぱいある。自分で仕事を生み出そう」。まず取り組んだのが、働きながら休暇を楽しむ人たちの「コワーキングスペース」の開設だ。観光客や出張者も利用し、島民との交流も始まっている。来年には、島内の製糖会社などの協力を得て、黒糖を作る際に出るサトウキビの搾りかすを再利用したデニムの販売も始める予定だ。「ゆくゆくは新たな特産品に」と思い描いている。
ゆったりと流れる時間や独自の文化。ここにしかない豊かさを次の世代にどう引き継いでいくのか。「自立」へ向けた模索は続く。
