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【長崎被爆】 田中重光さん 80(長崎市)

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爆心地で被爆の継承について思いを語る田中さん(長崎市で)
爆心地で被爆の継承について思いを語る田中さん(長崎市で)

 1945年春、父に召集令状が届き、長崎市内から時津町の父の実家に疎開。祖父母と母、兄、弟の6人で暮らしていた。

 あの日、4歳だった私は、2歳の弟と祖父と一緒に爆心地から約6キロ離れた家の庭で遊んでいると、B29の爆音がとどろいた。空を見上げて機影を探していると、ものすごい光を感じ、数十秒後、爆発音と爆風に襲われた。家中のガラスが割れ、障子やふすまが吹き飛んだ。

 原爆投下から1時間ほどたつと、爆心地から離れた時津町に、負傷者が逃げてくるようになった。皮膚をぶら下げた人や、顔が腫れ上がった人で町の病院や学校はいっぱいになった。母は、翌日から国民学校で負傷者の手当てを行った。病院前の田んぼには、遺体が放置されていたとも聞いた。父は、爆心地近くで遺体やがれきを片付けたという。

 その年の12月に祖父、4年後に祖母が他界。私が16歳の時には父も肝臓がんで亡くなった。その後の暮らしは貧しく、学校に通いながら長崎駅で荷物運びの仕事をした。高校卒業後、国鉄に入社し、蒸気機関車の機関助手を経て運転士になった。

 85年8月、労働組合の推薦で渡英し、被爆体験を語ったことをきっかけに、被爆者運動に加わった。10年ほど前からは語り部も行っている。遠距離被爆なので語ることはないと思っていたが、被爆者運動の先達が高齢で語れなくなる中、手助けしたいと思った。話す内容は、父母が見たことや体験したこと、平和はみんなで作り上げなければならないということだ。

 コロナ禍で年間20回ほど行っていた講話は激減。語らない期間が長くなる中、認知症が進んだり入院したりしてコロナ後の復帰が見通せない仲間もいるが、戦争も差別や貧困もない平和な世界になるよう語り続けなければならないと思う。

 今年1月、核兵器禁止条約が発効した。国際的に核兵器が違法だと 烙印らくいん を押すことができたのは、核兵器廃絶を望む被爆者として大きな喜びだ。ただ、日本政府が参加しないことが口惜しい。唯一の戦争被爆国の責務として、一日も早く参加してほしいと願う。

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2248589 0 ニュース 2021/08/01 05:00:00 2021/07/31 11:04:21 2021/07/31 11:04:21 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/07/20210730-OYTNI50008-T.jpg?type=thumbnail

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