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米国統治下の1959年に沖縄県旧石川市(現・うるま市)で起きた
宮森小学校米軍ジェット機墜落事故
から30日で63年となった。当時の在校生で、今なお米軍機が飛び交う現状も全国各地の講演で伝え続けている
30日午前、遺族や卒業生でつくるNPO法人「石川・宮森630会」主催の慰霊祭が同校で開かれ、約50人が慰霊碑に花を手向けた。この間も上空を米軍機が飛び、あいさつが
当時は2年生。教室で給食のミルクを飲もうとした時に突然、爆音と爆風に襲われた。周囲は炎に覆われ、崩れた天井から青空が見えた。火の粉を手で払いながら必死で逃げた。頭や手足が血だらけの子や、水道の近くで息絶えた黒焦げの遺体が目に焼き付いている。
平良さんが悲劇を後世に残そうと動き出したのは、母校に校長として戻った2008年。事故のことがあまり語られなくなっており、「地元ですら風化しつつある」という危機感に突き動かされた。資料館開館を目指す委員会を設置し、当時の児童や教員らに証言の聞き取りを始めた。
遺族や学校関係者にも呼びかけて遺影や現場の写真を提供してもらった。翌年には一時的に約300点を校内に展示。委員会から発展した石川・宮森630会に活動を引き継いだ。
校長業務の傍ら、語り部活動にも力を入れた。それまでは思い出すのもつらい体験を積極的に話すことはなかったが、県内外の学校や自治体から講演依頼が次々と届いた。休日を利用し、本土だけでなく米国の沖縄県人会、フランスの大学など海外にも足を運んだ。
米統治下の実情も伝えるよう心がけた。戦車が日常的に道路を行き交っていたこと、父親不在時に押し入ろうとした米兵を母親と戸を押さえて必死に止めたこと――。驚く聴衆に接するたび、「沖縄を知る機会が少ない。本土に情報が届いていない」と痛感した。
使命感に駆られ、教員退職後の15年から今年3月まで、単身赴任で本土に生活の拠点を移し、東京や兵庫、滋賀の保育園でそれぞれ園長を務めながら、語り部活動を続けてきた。
復帰50年近くを経てなお、米軍機が1日に何度も行き交い、恐怖を感じることも伝えた。「基地負担の大きさを初めて実感できた」「知らなかったことを同じ国民として申し訳なく思う」。こうした感想も寄せられ、語ることの重みを感じている。沖縄に戻ったが、今後も講演を続けるつもりだ。
平良さんが唱えてきた資料館設置もようやく実現する。石川・宮森630会は、市などに働きかけ、同校敷地内にあり、3月末で廃園となった幼稚園の一部を活用できることになった。今年中の開館を目指し、市側と協議が続いている。
遺影や遺品、遺族らから聞き取って作成した証言集のほか、米国立公文書館で発見した米軍の事故報告書や医療報告書なども展示する予定だ。当時5年生だった同会の
平良さんは「苦難の歴史を味わった沖縄だからこそ、命と平和の大切さを広く伝える力があると信じている。資料館がその一助となり、後世に伝える役割を担ってくれれば」と思いを託す。
