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黒ずんだ外壁、穴のような窓…動くものの気配なき4階建てアパート
長崎県にある軍艦島(端島炭坑の通称名)は、海上にまさに名前のように見える廃虚が人気だ。世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産でもある。こちらは岩手県北西部の八幡平市。山の中に「北の軍艦島」とネット上で話題の廃虚がある。東洋一の硫黄鉱山と称された松尾鉱山の跡地。標高約1000メートルの高地に放置された建物群だ。山岳景観を壊す存在と言えなくもないが、廃虚がなぜ人を引きつけるのか、納得できる場所でもある。

2021年10月の午後、景勝道路「八幡平アスピーテライン」に通じる県道を車で上る。夏場だけバスが止まる緑ヶ丘の停留所を左折。しばらく進むと、右側に鉄筋コンクリート4階建ての「緑ヶ丘アパート」が姿を現す。
かつて白かっただろう外壁は黒ずみ、窓ガラスがあった部分はさらに黒い穴のようだ。何棟も連なり、高い煙突も見える様は、確かに軍艦のスケール感がある。しかも山の中。何も知らずに訪れたら「なんじゃこりゃ」と驚くこと請け合いだ。
辺りは静まりかえり、動く物の気配はない。街灯もない。夜はたぶん来たくない。
硫黄需要の3割、最盛期は新国劇や映画も上演

ここで硫黄鉱床の露頭が発見されたのは明治時代。1914年(大正3年)の松尾鉱業の設立とともに本格的な採掘と製錬が始まった。硫黄は化繊や肥料、化学薬品、染料などの原料として幅広く使われ、生産高は、国内需要の約3割を占めた時もあったという。
50年代の最盛期には病院や学校、今でいうスーパーなどがあり、新国劇や映画などが催された県内最大規模の娯楽施設も作られた。一時は従業員と家族ら約1万5000人が暮らし、祭りや運動会など行事もさかんに行われた。生活の充実ぶりから「雲上の楽園」とも呼ばれた。51年完成の緑ヶ丘アパートに設置された暖房設備や水洗トイレは、当時最先端を誇ったという。

その後、石油精製時に抽出できる安価な「回収硫黄」が出回ると鉱山は急速に衰退。69年に坑内採掘、製錬を中止して事実上閉山した。
現在残る建造物は、緑ヶ丘アパート、単身赴任者が住んだ「至誠寮」などわずかだ。至誠寮は道沿いにあり、はがれたコンクリート部分に植物が生えている様子など、朽ち果てぶりがよくわかる。美しい山岳地帯には、あまりにも異質な存在。だからからか、「繁栄と滅びは、世の常か」なんて、気取って考えられる場所でもある。
ロープウェーで結ばれた鉱山、生活物資も輸送

この寂しい空間に存在したにぎにぎしい鉱山町を深く知るには、ぜひ八幡平市松尾鉱山資料館を訪ねてほしい。
鉱山の歴史や作業、住民の生活などに関する写真、生産用具などを展示している。屋外には、硫黄などを輸送した松尾鉱業鉄道で使われた電気機関車もある。
目立つのは、52年製作の鉱山の全体模型だ。どんな地形に、どんな施設があったのか一目瞭然。また、鉱山が採掘・製錬現場と輸送拠点に分かれ、その間(約3・6キロ)が「索道」(ロープウェー)で結ばれていたことがわかる。

ちなみに、索道は4基で、硫黄や生活物資などを積んだバケットが空中を行き来していた。私の理解を超える高さにつるされたバケットの写真を見ると、やはり「なんじゃこりゃ」となる。
いま鉱山跡地の敷地は国の所有だが、建物の所有者は不明だ。周囲からは有害な坑廃水がいまも流出しており、近くの施設で中和処理を行ってから川に流す作業が続けられている。
県北の厳しい自然の中「国を豊かにする喫緊の事業」

館内を案内してくれた管理指導員の高橋朗さんは以前、松尾鉱山に対して川を汚染した負のイメージしかなかったという。「ここで調べるうち、国を豊かにするため喫緊の事業として作られたことがわかりました」と話す。確かに、鉱山の正負の両面が学べる場だ。「岩手の県北の厳しい自然の中に、大きく繁栄した場所があったことを知ってもらえれば」。高橋さんは続ける。
跡地は50年後、100年後はどうなっているだろう。長い年月で崩壊が進み、全ての建物ががれきと化し、草木の間に埋もれてしまうかもしれない。ここでも滅びをイメージしてしまう。
真冬でも見に行くことはできるが、雪深い山道に不慣れな人にはお勧めしない。資料館で知識を蓄え、穏やかな季節にゆっくり訪れてみたらどうだろう。建物を眺めながら、往年の繁栄ぶりを思い浮かべるのもいい。
◆鉱山跡地の敷地内は危険なため立ち入り禁止。
◆八幡平市松尾鉱山資料館
岩手県八幡平市柏台2の5の6。電話・ファクスは0195・78・2598。休館日は月曜と年末年始(月曜祝日の場合、翌日休館)。入館無料。

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