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一本の針が幾重もの溝を伝い、音を奏でるレコードの洗浄には、良質な水が欠かせない。宮城県随一の穀倉地・登米市に位置し、北上川を間近に望む「ショップ リバー サイド」。辺りを田畑に囲まれた店内で、マスターの佐々木廣保さん(73)はターンテーブルの形をした機械を回し、1枚5分ほどで手際よくレコードを手洗いしていく。ジャズ喫茶でありながら、レコード洗浄も専門にする珍しい業態だ。

水のプロ、こだわりの浄水は最高純度
5リットルで1600円、2リットルで2万4000円。洗浄に使う精製水と仕上げのコーティング剤は、安くない。注文は月に数枚から数十枚で、料金は1枚400円。「正直、もうかりはしないよ」と笑うが、そんな「隙間商売」を手がけるのには訳がある。
何より不純物のない水を使うことが大切だと語る佐々木さんは、登米市上下水道部を定年まで勤め上げた、いわば水のプロフェッショナル。30年余り、北上川の水に
毎日の退勤後に浄水場の濾過膜も使って探求を続け、たどり着いたのが医療用にも使われる「限外濾過膜」で
溝に刻まれた音を全て拾う

学生時代から、兄の影響でオーディオいじりに夢中になった。当時、音楽雑誌を飾ったのが「ハイファイ(高音質再生)」の文字。レコードの溝に刻まれた音を全て拾うことだと佐々木さんは考えた。
その溝にホコリやカビがあっては、いくら音の「出口」であるオーディオ機器を豪華にしても収録時の原音の再現は難しい。高校を卒業後、そんな思いから水道水と新聞紙を使ってレコードを洗い始めた。機械いじりの腕を買われ、現在の市上下水道部の前身となる組織に転職したのは22歳の時。新しい職場で洗浄の水にこだわり始めたのは自然な流れだった。
聴いたことのない音に一様に驚く客

「長年の研究の成果を仕事にしたい」。夢だった店の構想は50代で具体化した。市内でジャズ喫茶を営む仲間に相談すると、レコード洗浄中にコーヒーも出せばいい、と勧められた。物置に使っていた自宅離れの改装に取りかかったのは定年退職してすぐ。三味線や竹を飾って和風にし、10か月後の2009年9月、喫茶施設も備えるレコード洗浄専門の店としてオープンした。
初来訪の客に決まって流すのがビル・エヴァンス・トリオの「マイ・フーリッシュ・ハート」。冒頭のシズルの付いたシンバルの高音に、客はみな一様に驚く。聴いたことのない音が聞こえる。「それが麻薬みたいにやめられなくなる」とは、佐々木さんの実感だ。

愛用するスピーカーであるタンノイのオートグラフに、英クォードのパワーアンプは、今では自身の声のように感じるまで店になじんだ。音の出口は「もう調整する必要がない」。そうして、佐々木さんは今日もレコードを洗うのだ。
昨年9月には喫茶店の営業許可証を更新した。妻には引退も進言されたが、返事はこうだ。「なに、俺からこいつとったら何もなくなっちまうんだから」。音にこだわる元水道職員の店は、もうしばらく健在のようだ。(読売新聞東北総局 長谷川三四郎)
【メモ】登米市豊里町迫82の2、三陸自動車道桃生津山インターチェンジから車で7分。火曜、水曜定休。(電)090・3757・3200
※この記事は、2021年11月19日から12月2日にかけて読売新聞宮城県版に掲載した連載記事に加筆・修正したものです。冬の特別編として、5回(予定)に分けてお届けします。
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