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気仙沼遺構・伝承館 佐藤健一館長
「あの日」がほぼ手つかずで残された光景に、訪れた人は皆息をのむ。
校舎3階の壁を突き破り、ひっくり返った乗用車。波を防ぐはずの防潮林の木々が教室の窓ガラスや天井を粉々に壊して散らばっている。

宮城県気仙沼市の東日本大震災遺構・伝承館は、被災した気仙沼向洋高校の旧校舎を利活用した施設だ。津波被害の惨状をそのままの状態で保存して来館者に見せている。
その2代目館長、佐藤健一さん(68)はあの日、多くの人の命を救えなかった自責の念を胸に、館長と語り部の両方の業務に携わっている。
自身を責め続け11年…「伝えることで責任果たせるなら」

2011年3月11日。佐藤さんは気仙沼市の危機管理課長だった。震災前は、土日も休みなしで各地区を巡り、避難の場所や経路を住民と何度も話し合った。防災マップ作りのためだ。
しかし、人の命を守るために選定したはずの市内100か所以上の避難所のうち、海に突き出した杉ノ下地区高台の避難所だけがあの日、津波に襲われ、多くの人が亡くなった。
明治三陸大津波など、過去の津波被害を調べた上での避難所の選定だった。地区の遺族も「みんなで話し合って決めた場所だ」と言ってくれる。だが、佐藤さんは「自然災害に絶対安全な場所はない。災害に上限を設けてはいけない。そのことをもっともっと真剣に考えるべきだった」と11年間自らを責め続けている。
館長就任の打診が来た時も、「自分に資格はない」と断り続けた。だが、何度も打診を受ける中で「私には責任がある。反省を語り、伝えることで責任を少しでも果たせるならば」と考え直し、21年4月に就任した。

遺族の映像に涙「何度も見ているはずなのに…」
伝承館の見学は、港や街をのみ込む津波の映像の視聴から始まり、展示を見て回った後、未来に向けて懸命に立ち上がろうとする遺族らの映像を見て終了する。
筆者を案内してくれた佐藤さんは、遺族の映像を見ながらボロボロ涙をこぼしていた。「何度も見ているはずなのに、何度も泣いてしまう」と声を詰まらせた。
語り部が震災を伝える意味について問うと、遠くを見つめた後、次の答えが返ってきた。
「心のどこかに悲しい出来事をとどめておくことが命を守ることにつながると思います。小学生もここを見学する前と後では目の色が全く違う。真剣なまなざしに変わっています」
伝承館は19年3月に開館。19年度は約8万人と予想を超える数の来館者が訪れたが、新型コロナの影響で20年度は約3万2000人と半分以下に落ち込んだ。21年度は途中まで前年度比プラスで推移したが、オミクロン株拡大で再びマイナスに。修学旅行など団体客の予約もキャンセルが相次ぎ、「最も震災について考えてほしい月」の3月に入っても好転の兆しはなかなか見えないという。
入館料の落ち込みで、施設の維持費確保にも黄色信号がともる。気仙沼市はふるさと納税制度を活用したクラウドファンディングで寄付を募っている。
中学生も「震災は記憶にないです」

佐藤さんは、伝承館を老若男女や職業を問わずたくさんの人が集う「多様化する防災学習の拠点」とする構想を進めている。津波に限らず自然災害全般を学び、発信する場。さらに英語のスピーチや社会的弱者を守る福祉、「オンライン語り部」なども取り入れていくと語る。防災・伝承のネットワーク化だ。
実際、震災11年にあわせて開催中の「けせんぬま伝承・防災文化祭2022」(3月1日~4月3日)では、小中高校生らの語り部活動発表、紙芝居やポスターによる防災啓発、防災クイズラリー、英語弁論など多彩な催しが行われている。
この一環で、読売新聞写真部が被災地の姿を収めた「3・11『あの日』から」の報道写真展も伝承館で開かれている。震災発生から68時間後に救助された赤ちゃんを笑顔で抱く自衛隊員など、50枚の写真パネルが並んでいる。
最近、小学生だけでなく、中学生からも「震災は記憶にないです」と言われるようになったと苦笑する佐藤さん。震災を知らない世代へのバトンタッチ。語り部と伝承館の役割は重要さを増している。

伊藤文夫さん、佐藤健一さん、2人が共に強調していたのは、「自然災害に上限を設けてはいけない。想定外を想定して備えないといけない」というメッセージだ。地球温暖化に伴い、異常気象が異常でなくなってきた今日、語り部からのメッセージをあらためて胸に刻みたい。
【メモ】伝承館(宮城県気仙沼市波路上瀬向9の1)の電話は0226・28・9671。入館料は一般600円。高校生は400円、小・中学生は300円。毎週月曜日休館。三陸沿岸道路「大谷海岸IC」から車で約10分。すぐ近隣には「龍の松」や「潮吹岩」などの観光スポットがある。
