読売新聞オンライン

メニュー

<173>藤堂家支城で火術上覧

メモ入力
-最大400文字まで

完了しました

藤堂高久公墓所(伊賀市長田の比自山で)=筆者提供
藤堂高久公墓所(伊賀市長田の比自山で)=筆者提供

 「 土芥寇讎記どかいこうしゅうき 」という史料をご存じだろうか。

 江戸時代、元禄期、将軍でいうと5代徳川綱吉の治世に、公儀隠密が全国諸大名についての評判や素行を調査し、それをもとに幕府高官が書き記したとされる極秘の史料である。

 既に昭和42年(1967年)の段階で、当時の東京大学史料 編纂へんさん 所の金井圓教授により、活字本(人物往来社)が刊行されているが、広く一般にこの史料が知れ渡るようになったのは、平成18年(2006年)に出版された磯田道史著『殿様の通信簿』(朝日新聞社)によるところが大きい。

 同書では、水戸黄門でお 馴染なじ みの徳川 光圀みつくに や、赤穂浪士の殿様である浅野 内匠頭たくみのかみ など、比較的有名な大名らを、意外なエピソードを交えながら紹介している。

 例えば、御三家の一家である水戸藩の当主徳川光圀は、政治的には「善政」であったと評価される一方、ひそかに悪所(遊郭)に通うなど、素行的には「難アリ」とも見られていたようであり、我々がドラマでよく見る、水戸黄門様のイメージとは随分とかけ離れている、といったことなどがあるのだ。

 「土芥寇讎記」には、このように、たとえ親藩の御三家当主といえども、多少の 忖度そんたく はあるにせよ、 辛辣しんらつ に酷評される場合が多い。外様の大名では言わずもがなであろう。

 では、反対に褒めたたえられる大名はいなかったのか。酷評される大名に比べると少ないが、もちろんちゃんと存在した。ここではその一例を紹介しよう。元祖伊賀者の殿様である津藩藤堂家だ。

 当該期の藩主は、3代藤堂 高久たかひさ である。史料によると、高久は「 才智さいち 発明に、 寛然かんぜん として、 ●曲侫謀(かんきょくねいぼう) 之意地無し、自から儒書を読ずれども、常に儒医且つ学者等 かたわら徘徊はいかい して、道を ききことわり を極る事を尋ね問ふ。故に 尋常よのつね 之学者には遙かに増る成るべし。旧記・記録を この びて 披見ひけん し、古今武将の善悪・ 智愚ちぐ勇臆ゆうおく ・強弱・ 有謀ゆうぼう ・無計之 勝劣しょうれつ を吟味す。 中就なかんず く武法を専らと たしなみ 、兵術に錬磨 んことを欲す。行跡正しく道を守り、 むさぼ り之意地無く、土民を深く 愛憐あいれん し、 ゆう 有てしかも たけ からず、柔和にして 備はる。誠に良将と云ふべし」(※読み下しは筆者による)とあり、隠密の目からも、文武両道の名君としてたたえられているのだ。

 特に興味深いのは、「武法を専らと嗜、兵術に錬磨」とある点だ。藤堂家の殿様は、参勤交代で江戸から 国許くにもと に帰国する折、本城である津城はもちろんのこと、ほぼ毎回支城である伊賀上野城にも訪れる慣例があった。その際には、忍者(伊賀者)の火術を上覧する機会があったという。

 兵術に精通していた高久自らも火術の覚えがあったとしても不思議ではないだろう。

 池ノ谷匡祐・国際忍者研究センター研究員

 文学修士。早稲田大院を休学し、2019年4月からセンターに勤務。研究テーマは「近世における将軍御成」。

※●は「女」2つに「干」

無断転載・複製を禁じます
2189256 0 三重大発!忍び学でござる 2021/07/07 05:00:00 2021/07/07 05:00:00 「藤堂高久公墓所」(伊賀市長田字比自山)=筆者提供撮影 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/07/20210708-OYTAI50005-T.jpg?type=thumbnail

ピックアップ

読売新聞購読申し込み

読売IDのご登録でもっと便利に

一般会員登録はこちら(無料)