読売新聞オンライン

メニュー

<175>惣国一揆掟書いつ制定

メモ入力
-最大400文字まで

完了しました

和田裕弘氏の著書「天正伊賀の乱」(中公新書)
和田裕弘氏の著書「天正伊賀の乱」(中公新書)

 このたび、和田裕弘氏からご労作「天正伊賀の乱」(中公新書)のご恵贈にあずかった。和田氏といえば織田信長であるが、今回は信長と伊賀の国人・土豪をメンバーとする「惣国一揆」との死闘をテーマに選ばれた。伊賀の戦国時代から関ヶ原の戦いに至る動乱期を幅広く史料博捜され、かつ読みやすい仕上がりとなっているので、ぜひご一読いただきたい。

 ここでは、お礼の気持ちを込めて年欠霜月十六日付伊賀惣国一揆 掟書おきてがき (「山中文書」)の謎に迫りたい。

 戦国時代の伊賀の国人・土豪たちは、日常的に村々で発生する様々なレベルの紛争を解決する仕組みを早くから構築していたばかりか、六角氏や北畠氏など隣国の大名との軍事同盟を築いていた。

 伊賀衆とよばれた彼らが、 傭兵ようへい や諜報員などとして安心して他国で稼ぐことのできる環境をつくっていたのである。彼らにとって、足利将軍家や管領家以下が分裂して戦乱状況が継続することが稼ぎの条件だったから、信長による天下統一戦は重大な事態を招いた。

 永禄11年(1568年)9月、足利義昭を奉じた信長は上洛を遂げて畿内諸国を平定し、同年10月には義昭が将軍に任官することで室町幕府を再興した。永禄12年9月に、南伊勢平定をめざした信長は北畠 具教とものり具房ともふさ 父子を大河内城(松阪市)に追いつめたが、この時点で北畠氏を援護すべく、甲賀衆が伊賀衆を誘って蜂起するとの風聞が流れた。

 信長入京以前において、六角氏―甲賀郡中惣―伊賀惣国一揆―北畠氏との連携関係があり、南近江から伊賀・伊勢における広域の「平和」秩序が構築されていた。したがって、伊賀衆・甲賀衆蜂起の風聞も、これを背景とするものであった。

 しかし同年10月には北畠氏が降伏し、伊勢は信長に平定された。隣国の与同勢力を失った伊賀惣国一揆は、甲賀郡中惣を除き隣接する諸国と敵対することになったのである。この頃には、伊賀守護仁木氏も信長に加担して惣国一揆の解体を画策した。存亡の危機に対処すべく、同年11月に惣国一揆掟書が制定されたと推測される。

 それでは、掟書の最後の第11条に注目したい。伊賀の防衛体制は整った。甲賀郡中惣との軍事協力が大切なので、国境で近日中に両メンバーを交えた野寄合を開催する予定である、というものである。信長との衝突に備えて同盟関係の強化をねらったのだろう。ここに、伊賀惣国一揆掟書の謎を解くヒントが潜んでいる。(この項続く)

藤田達生・教育学部教授

 日本史学。神戸大学大学院博士課程修了。学術博士。副学長。織豊期の城郭や藤堂高虎の研究で知られる。

無断転載・複製を禁じます
2225283 0 三重大発!忍び学でござる 2021/07/21 05:00:00 2021/07/21 05:00:00 和田裕弘氏の著書「天正伊賀の乱」(中公新書) https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/07/20210721-OYTAI50008-T.jpg?type=thumbnail

ピックアップ

読売新聞購読申し込み

読売IDのご登録でもっと便利に

一般会員登録はこちら(無料)