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    パラオの記憶 名前に

    北原尾地区(蔵王町)

    • 入植後間もない北原尾地区の様子。「笹小屋」が住まいだった(開拓40周年記念誌「北原尾のあゆみ」より)
      入植後間もない北原尾地区の様子。「笹小屋」が住まいだった(開拓40周年記念誌「北原尾のあゆみ」より)
    • かつての牛舎の中で、40頭以上の乳牛を飼っていた当時を振り返る工藤さん(蔵王町で)
      かつての牛舎の中で、40頭以上の乳牛を飼っていた当時を振り返る工藤さん(蔵王町で)

     冠雪の蔵王連峰を望む傾斜地に、青々とした牧草が広がる。所々の小屋から牛たちのつぶらな瞳がのぞく。蔵王町の北原尾きたはらお地区。玄関口に立つ石碑には、こう書かれていた。<南洋パラオを忘れないように、北原尾と命名する>。1946年春、日本に委任統治されていたパラオからの引き揚げ者がこの地に入植し、開拓を始めた。地名は「北のパラオ」に由来する。

     今も南洋の記憶をとどめる人は数えるほどしかいない。パラオ本島の「大和村」で少年期を送った吉田智さん(82)はその一人だ。「戦争まではいいところだったなあ」。語り始めると声が弾み、視線が遠くなる。「学校から帰るとまず、庭のパパイアの木に上るんだ。黄や赤に熟れて、今にも落ちそうになってる果実がいつでもあって、もぎって食ったもんさ」

     44年頃から、パラオ本島は激しい空襲にさらされる。妹と弟が撃たれて死んだ。4歳で引き揚げた工藤静雄さん(73)も乳飲み子の妹を亡くした。補給が絶たれ、母の乳が枯れたためだ。土中に葬られ、形見は遺髪だけだった。

     彼らは終戦直後、米軍艦で帰国。その際、パラオに置かれていた「南洋庁」の官僚だった高橋進太郎(後の県知事)が東北・北海道の出身者38世帯の入植先として手配したのが、蔵王山麓の土地だった。肌を刺す寒さ。南洋とは全く違う。9世帯がすぐに離農した。

     入植者たちはやぶから篠竹を切り出して急造した「ささ小屋」に住み、おのや鍬で開墾にかかる。不慣れな高冷地農業。やっとの思いで豆や芋の栽培に着手しても、育たなかった。山菜を採り尽くして飢えをしのいだ。「麦飯と、たくあんか梅干しだけの弁当箱を開けるのが恥ずかしかった」と工藤さんは語る。53、54年はひどい冷害が続き、牧草だけが伸びるのを見た入植者たちは決めた。「酪農しかない」。全世帯が牛を買った。

     父が乳牛1頭を購入し、中学生だった工藤さんも朝6時過ぎから乳搾りをするようになった。生計は一気に安定した。父から家業を継ぐと、30頭、40頭と増えた牛の世話に早朝から晩まで追われた。「苦労したのかもしれないけど、そういうもんだと思ってたね。牛には感謝してるんだ」

     65歳で引退すると、まっ先にパラオへ向かった。海を見ていると、流暢りゅうちょうな日本語を使う高齢の女性に話しかけられた。「日本人と一緒の学校で学んだ。親切だった」。妹の遺骨代わりに、島の土をひとつかみ持ち帰った。

     吉田さんはパラオに足を運んでいない。思い出に深く分け入っていけば、妹と弟を奪った戦争の記憶にぶつかる。「平和な時代だから、忘れられていけばいいのさ」と静かに言った。

     (中川慎之介)

    2015年05月02日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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