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    残された「無番地」の街

    • 〈8〉
      〈8〉
    • バラック長屋の路地を駆ける子供たち(写真家・小野幹さん提供)
      バラック長屋の路地を駆ける子供たち(写真家・小野幹さん提供)
    • 住宅がぽつんと立つ追廻地区(手前)。かつての面影はない=仙台市青葉区で
      住宅がぽつんと立つ追廻地区(手前)。かつての面影はない=仙台市青葉区で

    追廻地区 (仙台市)

     青葉山から仙台市中心街を見下ろす。高層ビル群の手前の広瀬川右岸に、人家が点在する荒れ地が広がっていた。終戦直後、満州(現中国東北部)や台湾などから引き揚げたり、仙台空襲で家を失ったりした人々が居を構えた川内追廻おいまわし地区。いまは3世帯だけが残る。

     「住所を書くのが嫌だった。年賀状を会社の同僚とやり取りするたびに、『無番地なんてあるの』って聞かれてね」。数年前まで住んでいた鈴木鉄夫さん(71)の住所は「川内追廻無番地539」だった。「仮住まい」の街を象徴していると感じていた。

     「住宅営団」が国有地だったこの地に粗末なバラック長屋の仮設住宅を建て、1946年に入居が始まった。しかし、市は同年の復興計画で、追廻を含む青葉山一帯を緑地や公園として活用すると決めた。定住を求める住民との対立が生じるなか、営団は51年、連合国軍総司令部(GHQ)から命じられて解散。営団は住宅を買い取るよう市や県に打診したが、財政難などを理由に拒まれ、住民が国から土地を借り、住宅だけを購入することになった。

     50年代には約600世帯4000人がひしめき合うように暮らし、商店や診療所、保育所もあった。仙台空襲で家を失った高谷正子さん(76)は、屋内が狭いため路地で煮炊きした。子供たちがその横を走り回って遊んだ。「貧しかったけど、人のつながりは濃かったの。留守にする間は子供を預け合ったりね」

     社会が豊かになるにつれて転居者が増え、高齢化も重なって住民は減った。延長措置が続いていた国との借地契約は2006年に切れ、残っていた約100世帯も11年までに退去。そのうち、鈴木さんや高谷さんら約50世帯は宮城野区新田の市営住宅に引っ越した。市の公園化の方針は変わっていない。

     鈴木さんは、追廻の住民の間で親しまれていた童謡「オイマワシノアカトンボ」のカセットテープを大切に保管している。作詞は追廻に住んだ詩人・スズキヘキ。彼の弟が曲をつけた。 テンシュダイカラ アカトンボ ドンドンアソビニオリテコイ――。懐かしい情景が旋律に重なる。

     ヘキの長女・謡子さん(84)も、いまは新田に移っている。飲んべえだったヘキは、街で懇意になった人々を追廻の家に招いた。「父は誰とも分け隔てなく付き合った。にぎやかだったわ……」

     追廻に住む男性(57)は「昔は人がたくさん行き交ったんだ。すっかり寂しくなっちゃった」とつぶやいた。入居から約70年。ここだけが、めまぐるしい発展から取り残されてしまったかのようだ。(仲條賢太)

    (おわり)

    2015年05月12日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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