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    5 登山の歴史―針ノ木峠の歴史から北アルプスと人とのかかわりを探る―…関悟志・市立大町山岳博物館学芸員

    • 関悟志・市立大町山岳博物館学芸員
      関悟志・市立大町山岳博物館学芸員

     信州大と読売新聞長野支局が共催する連続市民講座「岳問のすすめ~信州の山に学ぶ~」(全10回)の第5回が9月27日、同大理学部(松本市旭)の大会議室で開かれた。市立大町山岳博物館の学芸員、関悟志さん(38)が「登山の歴史―針ノ木峠の歴史から北アルプスと人とのかかわりを探る―」と題して講演。長野・富山県境の針ノ木峠の歴史をひもとき、時代ともに変化する山と人の関わり方について解説した。

     針ノ木峠は、長野・富山県境、北アルプス針ノ木岳(2821メートル)と蓮華岳(2799メートル)の間の一番くぼんだ部分「鞍部あんぶ」に位置しています。標高は2536メートルで、南アルプスの三伏峠(2580メートル)に次ぎ、日本で2番目に標高の高い峠です。

    ■針ノ木峠 往来の要衝

     日本では昔から、村や国が峠によって隔てられている場合が多い。峠は一般的に人の行き来が難しい場所です。なので、峠を越えると、全く違った文化や産物と出会うことになります。また、武将にとっては、戦略上の要衝となる重要な機能も果たしていました。

    ■成政の北アルプス越え

     それぞれの時代ごとに峠がどのような役割を果たしていたかを見ていきます。

     戦国時代、針ノ木峠にまつわる有名な伝説が戦国武将・佐々成政による「冬の北アルプス越え」です。これは、富山城主だった成政が、豊臣秀吉の軍勢に囲まれ、浜松の徳川家康に窮状を訴えるために冬の立山連峰を越えたという伝承です。

     博物館にも「本当に北アルプスを越えたのか」という質問が寄せられます。現在、成政の研究が進み、様々な歴史資料から見ていくと、冬の北アルプスを越えた確証はないのが現状です。ただ、冬の信州のいずれかの場所を縦断し、浜松まで行った事実はわかっています。

     成政は富山城主となる以前、織田信長に仕え、戦国時代を代表する猛者として知られています。勇猛果敢な成政なら、冬の北アルプスを越えられる――。人々の抱いたイメージが、伝承を生んだのかもしれません。

    ■国境をめぐる争い

     江戸時代には、加賀藩による「奥山まわ御用ごよう」、つまり役人によるパトロールが行われるようになります。この時代、信州側の木こりたちは、森林資源開発のために針ノ木峠を越えて黒部峡谷に足を踏み入れていました。彼らは黒部川を越中との国境と認識していたのです。一方、越中側は加賀藩が針ノ木峠を国境と定めていました。この認識の違いが、様々な争いを生む要因となりました。

     実際にトラブルの様子を記録した文書も残されています。それによると、信州側の木こりの宿泊小屋にパトロールの役人が火を放って追い出してしまったり、信州側の若者が逮捕され、加賀藩まで連行されて重罪に処されたりするなどの出来事があったようです。

     これらの争いは、江戸時代後期、加賀藩と信州側の松本藩の交渉の結果、針ノ木峠を国境とすることで決着しました。当時「加賀百万石」と呼ばれた加賀藩が国力で押し切ったという見方ができますが、当時の松本藩は上高地周辺の開発を進めており、辺境の地に力を注ぐ必要はないという判断をしたとも考えられます。

     1838年に江戸城西の丸が火災で焼失した際、加賀藩では黒部峡谷の良質な木材を江戸へ運ぶことになりました。その際、加賀藩は針ノ木峠を利用して信州側からの搬出を計画し、信州側の木こりを雇って木材伐採や搬出作業を行わせたと言われています。

    ■物資運送のための新道

     明治時代になると、物資を運ぶ目的で針ノ木峠を越える新道を作る動きが民間で出てきました。地元・大町の庄屋らが中心となって進めた、信越連帯新道(針ノ木新道)の開通計画です。これは、当時峠にあった、人ひとりがやっと通れる山道を、牛が通ることができるくらいに拡幅しようというものです。新道には、通行人に課金する仕組みも設けられました。

     ただ、通行人の数は年間でわずか数十人と当初のもくろみを大きく下回り、結局、新道は2年で廃道となってしまいました。しかし、イギリス人外交官、アーネスト・サトウなど、この道筋を利用した外国人登山者もいます。近代登山の先駆けの道としての役割を、果たしたと言えるでしょう。

    ■登山は身近な存在に

     大正時代以降、登山は市民にとっても身近な存在となっていきます。代表的なものが、名古屋の素封家・伊藤孝一らによる冬の針ノ木峠越えです。伊藤は大正時代、ムービーカメラを携えて富山側から峠を越えて信州側に向かう登山を敢行しました。目的について伊藤は「撮影した映像を、家族に見せる」と言ったそうです。登山者の格好などがわかる映像や写真が残されており、当時を知る上で、非常に貴重な登山と言えます。

     また、近代登山を語る上で欠かせないのが、立山黒部アルペンルート。登山をしない人でも、雄大な北アルプスに入り込める観光スポットで、毎年100万人もの観光客が訪れる人気ぶりです。元々は水力電源開発のための道で、その様子は映画「黒部の太陽」など多くの作品で知られています。

    ■登る人それぞれの魅力

    ■山の良さを伝える

    • 針ノ木峠の様子(関学芸員提供)
      針ノ木峠の様子(関学芸員提供)

     針ノ木峠という狭いエリアの話になりましたが、時代背景やそこで生きる人の目的によって、峠が果たしてきた役割の違いを、おわかりいただけたと思います。

     明治時代以降、近代登山の文化が国内に定着してから100年あまり。これは、先史から山と人が織りなしてきた1万数千年という歴史全体の物差しで見ると一瞬にすぎません。近代登山史だけでなく、山麓地域で育まれてきた独自の歴史や民俗を含めた北アルプスの山岳文化の全体像を浮かび上がらせるため、「山と人」について多様な視点で探る必要があります。

     山には、登る人によってそれぞれ異なる魅力があります。例えば私は歴史が好きなので、山の石仏やほこらを巡って楽しんでいます。その他にも、高山植物の観察、トレッキングやスキーといったレクリエーション、山を題材にした写真や絵画といった芸術なども、山の楽しみ方の数々です。

     そんな中、山にまつわる社会問題も出てきています。トイレや登山道の管理、遭難事故や救助にかかる費用負担、地滑りなどの災害――。それらの問題はすぐには解決できない。関係機関では研究が進んでいますが、山に関わる人も、自分で何かできることがないかを考えて行動することが大切です。

     長野県は7月に「信州 山の日」を制定。国でも、2016年から祝日「山の日」が定められます。山について考える機会がこれだけ多くなりました。大町市にも、北アルプスの麓で育まれた豊かな山岳資源があります。地域の博物館として、その良さをこれからも伝えていかなくてはいけないと思っています。

    ◎次回は10月25日午後1時半から、JA長野県ビル(長野市)の大会議室で、信州大工学部の土本俊和教授が「山小屋の魅力~山岳建築の歴史・現在・未来~」と題して講演する。聴講無料。事前申し込み不要。

    ◎【主催】信州大学、読売新聞長野支局【後援】長野県、長野市、松本市、テレビ信州、市民タイムス、モンベル

    2014年10月03日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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