<中>遺跡発掘 実像に迫る

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 「聖徳太子の魅力は大きいが、ゆかりの文化財を並べただけにすぎない」

 昨春、文化庁が認定する日本遺産の選考で、「太子道」が落選した。事務局を務めた王寺町教育委員会の学芸員岡島永昌さん(43)は、同庁から指摘された言葉に悔しさをにじませる。

 「『太子道』にたどる“日本のスーパースター”聖徳太子の風景」と命名された日本遺産候補は、沿道の法隆寺(斑鳩町)夢殿や橘寺(明日香村)、御廟がある叡福寺(大阪府太子町)など約60を構成文化財として列挙。法隆寺や県、沿道の10市町村など計14団体で結成した協議会が申請した。だが、落選後に中核となる斑鳩町が「調査研究が不十分」などとして脱退し、昨年6月に協議会は解散した。

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太子道とみられる遺構が出土した保津・宮古遺跡(田原本町教委提供)
太子道とみられる遺構が出土した保津・宮古遺跡(田原本町教委提供)

 飛鳥時代に遡る太子道は、古代の文書にも登場せず、実は正確なルートもよく分かっていない。文献上の初見は鎌倉時代の「聖徳太子伝私記(古今目録抄)」とされる。「太子が斑鳩から飛鳥へ通う近道として須知迦部路すちかへみちが作られた」とあり、両地域の最短ルートとなる斜めに傾いた道が、「筋違すじかい道」と呼ばれていた。

歩道橋を渡って道路を横断する太子道をたずねる集いの一行(昨年11月、斑鳩町で)
歩道橋を渡って道路を横断する太子道をたずねる集いの一行(昨年11月、斑鳩町で)

 このため、秋冬に歩く法隆寺では、市町村の担当者や専門家らに助言を求め、ゆかりの伝承地や寺社などを線で結んだが、ルート選定は試行錯誤を繰り返したという。「昔の地形が残っていない場所は、交通事情を優先せざるを得なかった」と、同寺僧侶の間中定潤けんちゅうじょうじゅんさん(65)は言う。

 横断歩道のない道路は、歩道橋を渡る。狭い歩道は一列になって進み、住宅地や田んぼのあぜ道などを縫うように歩くところも。車の通行が多く、集団で歩くには危険な橿原市内の一部や、香芝市と太子町境の穴虫峠などはバスを使うことになった。

 とはいえ、近年の発掘調査で、太子道が考古学的に裏付けられる可能性も高まっている。田原本町教委は1995年、保津から宮古にかけて広がる集落などの遺跡を発掘調査し、西に約20度傾く道の西側側溝(幅3メートル、深さ0・5メートル)を確認した。6、7世紀頃の遺構とみられ、道幅は22メートルと推定。町埋蔵文化財センター長の藤田三郎さん(61)は「実態がよく分からなかった太子道と考えられる」と分析する。

 さらに、日本書紀の「難波なには(大阪)よりみやこ(飛鳥)に至るまでに大道を置く」(613年)にある「大道」が太子道を指すという説が近年注目されている。奈良盆地南部を東西に貫く「横大路」が定説とされてきたが、このルートは7世紀半ば以降に出現したとする見方が強まってきたのだ。

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 「太子道は、国家が整備した初の官道」と、大和の古道に詳しい大和郡山市教委学芸員の山川均さん(57)はみる。当時、大陸からの物資は大阪から大和川を上り、太子道を通って飛鳥へ運ばれた可能性が高い。「遣隋使など海外交易を重視した太子は、物流拠点だった斑鳩に宮を築き、飛鳥への近道を整備したのではないか」と推測する。

 太子関連の著書がある県立図書情報館の千田稔館長(75)は「『ここが太子道だ』と伝えられてきたという伝承が、一つの歴史のあり方。人々が太子をしのび、信仰してきたことを示している。考古学的な実証だけでなく、伝承も大変重要なものだ」と指摘する。

 日本遺産認定の動きは今のところ足踏み状態だが、太子道の実像は徐々に明らかになりつつある。

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21396 0 法隆寺‐太子道‐ 2018/05/13 05:00:00 2018/05/13 05:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20180512-OYTAI50002-T.jpg?type=thumbnail

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