涙も、出会いも
完了しました



◇この町離れたくない
◇避難所で161日児玉さん一家
倉敷市真備町辻田にある白い壁の家。昨年12月26日、久しぶりに児玉家の家族4人が居間にそろった。パン工場で働く父親の充さん(36)が忙しく帰りが深夜になるからだ。「サッカーしようよ」。そう甘える長男の
一家が自宅に戻ったのは12月13日。豪雨で約5600戸が浸水した真備町の被災者のうち、最後まで避難所に残っていた。浸水した自宅の改修工事が終わるのを待っていると、避難所暮らしは161日に及んだ。
「やっと、ここまで来た。帰れただけありがたいと思おうな」。母親の理枝さん(38)は、不自由な暮らしを強いられている被災者の境遇を忘れないよう息子たちに言い聞かせた。
自宅を建てたのは8年前のこと。理枝さんも同じ工場で働くが、十分な蓄えがあったわけではない。頭金なしで35年ローンを組んだ。
当時は亘嘉君が生まれたばかり。子育てや仕事の合間を縫って考えた。「カウンター式のキッチンに」「外壁の色は白がいい」……。時には言い合いながらたくさんの希望を詰め込んだ。
2年前からダックスフントを飼い始めた。亘嘉君からとって、名前はヨッシーにした。「近くに友達がいない時、こっそりケージから出して遊んでた」と亘嘉君。柱をかじって怒られるいたずらっ子を弟のようにかわいがった。
昨年7月6日。話し声が聞こえないほどの大雨が屋根をたたいた。「一応逃げとこう」。その夜、充さんは家族を高台まで車で避難させた。出際に「キャンキャン」と鳴くヨッシーに「明日には帰るから」と伝えた。
一夜明けると、街が濁流にのまれており、ニュースが川の決壊を伝えていた。「うちはどうなったの。ヨッシーは」。亘嘉君の問いに充さんは何も答えられなかった。
水が引いた8日にたどり着くと、1階は泥に埋まっていた。真っ白だった壁は茶色く汚れ、悪臭が鼻をついた。床や浴槽が壊れ、家族写真もダメになった。
ケージ内ではヨッシーが息絶えていた。言葉を失った亘嘉君はその場を動けなかった。「ごめんよ、ごめんよ」。心の中で繰り返し謝った。
暗い顔で身を寄せた避難所。何百人もの被災者で足の踏み場もないほど混雑していた。寝床を隅っこに確保し、
次男の幸太朗ちゃん(5)は配布された弁当を3日で「食べたくない」と言い出した。兄弟の口癖は「早くうちに帰りたい」。イライラが募った充さんが声を上げたこともあった。
そんな頃だ。「今日は何してたの」。口数が減っていた兄弟に、寝床が近かった高齢女性が優しく声を掛けた。徐々に打ち解けると、周りのお年寄りも「漢字教えてあげようか」と輪が広がった。兄弟も「(現代風ベーゴマの)ベイブレード一緒にやろう」と誘うようになった。
「疲れてても、あの子らの笑顔に何度癒やされたことか」。一緒に過ごした佐名木道子さん(71)はそう振り返る。「避難所ではみんなが我が子同然の気持ちで接していたね」と話した。
「あいさつは元気な声で」「夜中に走り回るな」――。そう注意する佐名木さんの夫、
「元々真備に愛着があったわけじゃない」と理枝さんは言う。岡山市と香川県生まれの夫婦にとって職場に近いとの理由で選んだ土地だった。
でも今はちょっと違う。「被災して失ったものは大きかったけど、いい出会いもたくさんあった」と充さん。子供の成長を
夫婦は、避難所の人たちとLINEで連絡を取り合っている。一段落したら、自宅に招待してバーベキューをしようかと考えている。そのときはヨッシーの好物のビスケットも用意するつもりだ。
「青い服のおじさん、来るかな。また、叱られる」。幸太朗ちゃんがうれしそうに笑った。(松崎遥)