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光政の思い 350年存続<閑谷学校>

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閑谷学校の全景(旧閑谷学校顕彰保存会提供)
閑谷学校の全景(旧閑谷学校顕彰保存会提供)
閑谷学校資料館の時岡総一郎さん
閑谷学校資料館の時岡総一郎さん

 国の特別史跡・旧閑谷学校が今年、創学350年を迎えた。江戸前期の1670年につくられた日本初の庶民を対象にした学びの場は、国宝の講堂や美しく紅葉する楷の木など見所が多岐にわたる。受け継がれた建学の精神もまた、多くの人々を魅了し続けている。(水原靖)

墓所づくり きっかけ

 閑谷学校が現在の場所につくられたのは、岡山藩・池田家の先祖の墓所づくりがきっかけだった。初代藩主・池田光政(1609~82年)は、戦国の世を生き抜き藩の礎を築いた祖父・輝政や父・利隆の墓所候補を、かつて池田家の領地があった播磨(兵庫県西部)に近い岡山東部の山間部で探していた。

 その過程で見いだしたのが、のちに学校が建設される木谷村延原だった。閑谷学校資料館主任の時岡総一郎さん(48)は「光政は周囲を山に囲まれた静かな谷あいを見て、『自然に恵まれたこの場所で学問ができたら』と考えたようです」と教えてくれた。

 光政は69年に岡山城下に藩士のための藩校を創設。翌70年には庶民のための教育施設として閑谷学校を開校した。地名も「山水清閑(俗事にわずらわされず静かなさま)の地」を意味する閑谷に改められた。

 当時の建物は茅葺かやぶきの質素なもので、現在の陣容を整えたのは光政の子・綱政(1638~1714年)だった。84年に聖堂、86年に光政の霊をまつる芳烈祠ほうれつし(のちの閑谷神社)が整備され、1701年に講堂が完成。翌年には光政の遺髪などを納めた椿山が造られた。時岡さんは「光政が『開学の祖』となり、綱政が遺志を引き継ぎ完成させた」と説明する。

 さらに閑谷学校の成立を語る上で光政、綱政の2代にわたり仕えた重臣・津田永忠(1640~1707年)の存在は外せない。藩財政の立て直しや岡山後楽園の築庭、児島湾の干拓事業などに奔走した永忠は、閑谷学校の設立にも力を注いだ。学校建設を命じられると、岡山の城下から閑谷に移り住んでまで現場指揮に専心したという。時岡さんは「強い意志で仕事をやり遂げ、主君にも忠義を尽くした」とその働きを称賛する。

多くは庶民の子ども

 <日生村勇次郎孫 岩太>

 <乙子村善左衛門せがれ 百太郎>

 池田家の文書に、1868年に閑谷学校に入学した生徒の記録が残る。学校には武士や医者の子息もいたが、多くは村々の名字もない庶民の子どもだった。「豊かな国は人づくりから」との光政の思いをくみ、人々が実現させた「学問の理想郷」。その理念の通り、支配層だけではなく幅広く教育が授けられ、一定の学力があれば、入学資格は厳しく問われなかったという。

 藩財政の窮乏や明治維新などで、たびたび閉鎖の危機も迎えたが、そのたびに「先人が守り続けてきた精神を途絶えさせてはならない」と再興された。350年にもわたり存続できた理由について、時岡さんは「藩士だけの学校であれば、ここまで愛されなかった。『みんなの学校』という思いが、今に至らせているのでしょう」と話す。

      ◇

 ニュースのポイントを解き明かす「New門@岡山」11月シリーズは「閑谷学校」をテーマに5回にわたって掲載します。

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1625167 0 New門@岡山 2020/11/14 05:00:00 2020/11/14 05:00:00 2020/11/14 05:00:00 閑谷学校の全景(旧閑谷学校顕彰保存会提供) https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/11/20201113-OYTAI50019-T.jpg?type=thumbnail

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