文字サイズ

    <2>自慢の街 移住者が発掘

    • 「河内長野は私にとって第二の故郷になった」と話す天川さん。隣は天野山金剛寺の堀智真座主=前田尚紀撮影
      「河内長野は私にとって第二の故郷になった」と話す天川さん。隣は天野山金剛寺の堀智真座主=前田尚紀撮影

     ◇河内長野・天川さんPR

     色づく木々が秋の深まりを知らせていた。昨年11月3日、河内長野市にある天野山金剛寺の境内は、解体修理を終えたばかりの金堂(重要文化財)から流れ出る、優しく透き通った音楽に包まれていた。

     3月の落慶法要を控え、修理の完了を喜び合おうと開かれたコンサートは、堂内から観客があふれでるほどに、にぎわいをみせた。

     その様子を一番後ろの列で見守る女性がいた。プロデューサー役を務めた天川麻子さん(42)だ。

     横浜市で生まれ、東京の広告会社で、いくつもの大きな仕事に携わった。ある時「河内長野で家業を手伝う」と言った夫に、ついて行こうと決めた。「地域に入り込んで、足が地に着いた仕事をしたい」と思っていたからだ。2004年、花形の仕事を捨てて河内長野市に移住した。

     河内長野市は1970年代からベッドタウンとして栄えた。だが、2000年に約12万人とピークを迎えた人口は昨秋までに約1万6000人減った。天川さんが住む住宅団地「南花台」は、94年には当時の市の人口の1割にあたる約1万1400人が暮らしたが、昨年11月末までに約7800人に減った。家屋の老朽化が進み空き家が目立つ。

     8年前、デザインと企画制作の事務所を始めた天川さんは、子育てに没頭した間に、街に陰りが増したことに気づいた。スーパーや飲食店が閉じ、ガソリンスタンドも撤退していた。「やっていかれへん」とぼやく店は数知れない。

     会う人はみな、判で押したように言った。「あんた、ここにはなんもないよ」

     けれど、天川さんの受けとめは違った。郷土資料を読みあさり、神社仏閣に足を運ぶと、歴史や文化の奥深さに心を打たれた。採れたての野菜や果物のおいしさは、東京で口にしていた品とは比べるべくもなかった。

     なのに、地元の人は自慢しない。気づいてもいない。

     「ならば」と、人々の心を刺激する力を持ちながら埋もれていたものを掘り出し、情報誌やサイトに詰め込んだ。サイトでは地元の人たちに街のことを語ってもらい、農家や飲食店、アート作家たちを誘ってイベントを企画した。

     そんな、広告業界で磨いたセンスの光る仕事ぶりが、街の女性たちをきつけた。世代の近い女性が一人、また一人と仲間に加わった。

     忘れられないメールがある。「ずっとお会いしたいと思っていました」と書かれていた。今、市立文化会館で音楽イベントの運営を手がける、山田愉香さん(31)から、4年前の秋に届いた一通だ。

     河内長野で生まれ、東京で働いていた山田さんは、「いつかは関西に帰る」と思っていた。自分なりの将来設計もあったが「実現の場所は河内長野じゃない」と感じていた。

     だが、東京で見た情報サイトにつづられていた故郷は、自分が考えていた姿よりもずっと輝いて見えた。人々が河内長野を楽しもうとしている。「私が目指す生活、ここでできるやん」と気づかされた。

     14年に帰郷した山田さんは、サイトを作ったその人、天川さんにくだんのメールを送った。

     移住を決めた時、天川さんは知人に「都落ちだね」とからかわれた。「悔しくて、ここで生きると決めたことに自信をもちたくて、意地で頑張ったとこもあるかな」。その時のことを思い出し、笑った。

     自分の仕事が人々をつなぎ、一度は故郷を捨てた人が戻ってきた。情報誌やサイトを手伝ってくれる女性は60人を超え、思いに賛同してくれる人の輪は市全域に広がった。大きな自信が芽生えた。

     80年代末まで順調に増えた府の人口は、10年の887万人をピークに減り始めた。特に南部や東部で著しく、40年には府全体で750万人に減るとの推計もある。

     河内長野での経験を振り返って、天川さんは言う。「街へのおもいの薄い人がたくさんいるよりも、たとえ少なくても濃い人がいるほうが、きっと街は輝き出すはず」

     それは、これから人口減や高齢化の激しい波に洗われるであろう、いくつかの街の人々に向けたエールでもある。(沢本浩二)

    2018年01月03日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    PR
    今週のPICK UP

    理想の新築一戸建て