読売新聞オンライン

メニュー

ニュース

動画

写真

スポーツ

コラム・連載・解説

発言小町

漫画

教育・受験・就活

調査研究

紙面ビューアー

その他

サービス

読売新聞のメディア

購読のお申し込み

読売新聞オンラインについて

公式SNSアカウント

病克服した地に恩返し

メモ入力
-最大400文字まで

完了しました

大阪狭山の観光ボランティアガイド 谷上惠子さん 74

谷上惠子さん(大阪狭山市で)=吉田誠一撮影
谷上惠子さん(大阪狭山市で)=吉田誠一撮影

 大阪狭山市で、観光やまちづくりなど10以上ものボランティアに関わる谷上惠子さん(74)。重い病を克服したこの地を、つい住処すみかと決め、「まちに恩返ししたい」と走り続けています。

 地元の人は「狭山に観光資源はないよ」と言いますが、それなら自分で発掘しようと思ったのが始まりです。府立狭山池博物館のボランティアになったのが2012年。それから、日本最古のため池といわれる「狭山池」について古文書を調べたり、観光スポットになりそうな場所を歩いて探したり。真田幸村が大阪城に入城したコースや狭山藩の史跡など、たくさんのガイドウォークを企画しています。

 「PRできそうな場所はありませんか」と住民アンケートまでやりました。南海高野線の線路下に明治のレンガ造りの「暗渠あんきょ」があることが分かりました。7か所を見つけ、仲間と掃除をして7年前から案内しています。昨年は「土木遺産」に選ばれ、全国から見学に訪れるようになりました。

 博物館やガイドといった観光分野以外では、まちづくり研究会の一員や災害ボランティアとしても活動しています。何事にも一生懸命になるのは、長い闘病生活の経験が土台にあるからかもしれません。

 大阪市内の高校を卒業後、21歳で結婚して滋賀県に移住。長男を出産してから、白血病を発症しました。いつも体調がすぐれず、息子が中学生になると、堺市内の実家に戻って1年間療養しました。

 少し病状がよくなると、実家の家計を助けようと、37歳の時に堺の高島屋で働き始めました。アパレル会社の販売員でしたが、若い子に負けまいと月100万円以上を売り上げたこともあります。

 5年後、かかりつけの総合病院がある大阪狭山市に引っ越しました。膠原こうげん病の治療で入退院を繰り返しながらも、仕事は続けました。既に離婚していましたが、「いつ死んでもいいように財産を」と購入した家のローンを返すためです。別の百貨店に転職し、そこでも全国表彰されるほど服を売りました。

 定年退職した翌年の11年、長年家事を任せていた母が亡くなりました。気が付くと、私は地元のことを知らず、近所つきあいもほとんどありません。残された人生をどう生かすか。私はこの狭山で働かせてもらい、治療を受けてきました。「そうだ、このまちに何かしなければ」と思い立ちました。

 12年に観光ボランティアになってからは、仕事での経験が役に立ちました。常に給料を上げよう、人に負けまいと勉強してきたので、物を覚えるのは苦にならず、接客は得意だったからです。

 15年の「高野山開創1200年」を控えた当時、高野街道沿いのまち歩きをするイベントがあったのですが、わが大阪狭山市では案内できるガイドがだれもおらず、手を挙げました。百貨店での経験を生かしてイベントのチラシのデザインを見やすく一新。隣の堺や河内長野の先輩に教わりながら、最後には全体のプロデューサーも務めました。

 私のお気に入りスポットはなんといっても狭山池。冬場に水を抜かれた池の底から見上げると、堤の大きさに圧倒されます。「この光景を見てもらいたい」と、昨年初めて「池底ツアー」を企画したのですが、今月30日にも実施します。ここまで生かされてきたことに感謝し、もっと狭山の魅力をお伝えします。(吉田誠一)

 ◆満州(現中国東北部)生まれ。終戦の混乱期、母のリュックに隠されて日本に逃げ延びた。1946年夏、母の実家の熊本・天草に到着したが、衰弱した体が回復するまで数年かかった。先に帰国できた父と大阪市内で再び暮らし始めたのは、小学校入学前だった。

無断転載・複製を禁じます
1759354 0 大阪ひと語り 2021/01/10 05:00:00 2021/01/10 05:00:00 2021/01/10 05:00:00 谷上惠子さん(大阪狭山市で)=吉田誠一撮影 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/01/20210109-OYTAI50007-T.jpg?type=thumbnail

ピックアップ

読売新聞購読申し込み

読売IDのご登録でもっと便利に

一般会員登録はこちら(無料)