<戦後76年・上>死を覚悟し待った出撃

スクラップは会員限定です

メモ入力
-最大400文字まで

完了しました

人間魚雷「回天」搭乗員 吉兼法雄さん 90

 太平洋戦争末期、特攻兵器「回天」の搭乗員としての訓練を受けた豊中市の吉兼法雄さん(90)は、14歳で海軍に志願し、死を覚悟して出撃を待ちました。「上官から敵艦に当たって死ねと言われた。お国のために死ぬのは当たり前と思っていた」と振り返ります。

 大阪市西区西本町で生まれ育ち、地元の商業学校に通っていました。戦況が悪化すると、男は次々と兵隊に取られていきましたが、小柄だったので、徴兵検査には受からないだろうと思っていました。しかし、「戦争に行かないのは国賊」という風潮になってきたため、海軍に志願しました。1944年頃だったと思います。約40人の志願者が、瀬戸内海にある山口県・大津島基地に配属されました。

 「回天」は魚雷に操縦席を設けて敵艦に体当たりする兵器。全長約15メートル、直径1メートルの1人乗りです。通常の魚雷の約2倍の爆薬を積み、破壊力を高めていたとされます。

 基地に集められたのはいずれも少年兵。みんな小柄でした。どうしてかな、と思っていたら、艦内はとても狭く、「小さい方が、乗り込みやすいからや」と気付きました。

 作戦は「瀬戸内海に侵入してきた敵艦にめがけて出撃、撃沈する」というものでした。上官は「おまえたちはこれに乗って死ね!」と毎日のように声を張り上げます。回天は一度乗り込んだら中からは開けられません。敵艦を撃沈できなければ、そのまま沈んで、操縦士は窒息死します。「苦しくなったら、喉を突け」と短剣を渡されました。

 「決して生きて帰れない」「きっと死ぬ」。そう覚悟をしました。自宅を離れる時、父親は無言で手を握り、涙ぐんでいました。誰も止められない、志願して行く方もそれが当然だと思っていました。

 大津島基地で私が見た回天は4隻だけでした。交代で乗り、同乗した上官から操縦方法や計器の読み方を教わりました。まっすぐに動きますが、簡単に方向転換させることはできない。「こんなんで敵艦に命中させられるのか」と疑問に思いながら1年ほど訓練を続けました。幸い終戦まで敵艦が瀬戸内海に入って来なかったため、出撃は免れました。

 終戦の玉音放送は、上官と共に整列して聞きました。ラジオがぼろぼろでほとんど聞き取れませんでしたが、上官が泣き始めたのを見て、初めて「ああ、負けたのか」と思いました。みんなぼうぜんとしていました。

 最近、大阪市内の小学校で体験を話す機会がありました。熱心に話を聞いてくれ、たくさんお手紙をもらいました。子どもたちだけでなく、若い先生も「そんな歴史があったことを初めて聞いた」といって驚いていました。若い人を二度と戦地に送り込むようなことがあってはならない。そのためにも戦争の恐ろしさや愚かさをこれからも伝えていく必要があると思っています。(聞き手・彦坂真一郎)

 終戦から15日で76年を迎えます。今回の「大阪ひと語り」は特別編として3回にわたって、戦禍を知る人たちに語ってもらいます。

 ◆大阪市西区出身。戦後、焼失したワイシャツ製造会社を再建した父親の後を継ぎ、地域の復興に努めた。

スクラップは会員限定です

使い方
「地域」の最新記事一覧
2280819 0 大阪ひと語り 2021/08/13 05:00:00 2021/08/13 05:00:00 2021/08/13 05:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/08/20210812-OYTAI50008-T.jpg?type=thumbnail

ピックアップ

読売新聞購読申し込みキャンペーン

読売IDのご登録でもっと便利に

一般会員登録はこちら(無料)