<戦後76年・中>爆弾の雨 焼け野原の街

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第3次大阪大空襲を生き延びた 辻孝さん 90

 大阪市都島区の辻孝さん(90)は、大阪市北東部を中心に約2800人が犠牲になったとされる1945年6月7日の「第3次大阪大空襲」で、 焼夷しょうい 弾の雨の中を命からがら逃げ延びました。しかし、住み慣れた自宅や街は焼き尽くされ、「あの悲惨な光景を忘れることはない。戦争は二度と繰り返してはいけない」と訴えます。

 13人きょうだいの四男でしたが、兄3人を病気などで亡くしたため、「長男」として町内の世話役をしていた父親を手伝っていました。

 戦況が厳しくなった頃、母親は下のきょうだいを連れて父親の実家がある福井県に疎開。45年の春からは大阪市内でも空襲が激しくなり、「空襲が来たら桜之宮公園に逃げてくれ」と、父親と一緒に近所の人たちに呼びかけて回りました。

 6月7日、自宅で留守番をしていると空襲の警戒警報が聞こえてきました。

 とりあえず近くの防空 ごう へと逃げ込み、周囲であがった火を消そうとしましたが、次から次へと爆弾が降り注いできて、どうにもならない。「これはあかん」と公園まで走り、そのまま川に飛び込みました。

 爆弾は川にも落ちてきて、その大きな水しぶきをかぶった時には死を覚悟しました。しばらくして米軍機からの攻撃は収まりましたが、見慣れた街は姿を変え、あちこちで火がくすぶっていました。自宅に戻りましたが、水を張った釜だけがぽつんと焼け跡に残されていました。

 空襲の後、「大通りに大量の死人がいるから始末してくれ」との軍からの指示を受け、父親とともに犠牲になった人たちの死体をトラックの荷台に積み込む作業にあたりました。

 向かった城北公園付近にはたくさんの死体が横たわっていて、女性や赤子の姿もありました。「かわいそうに」と抱きかかえて運ぼうとすると、兵隊に「そんなんしてたら、いつまでたっても終わらんぞ」とどなられました。兵隊は先端に金属が付いた木の棒で死体を釣り上げては、荷台へと投げ入れていきます。「とても人間に対する扱いではない」と怒りを覚えましたが、逆らっても痛い目に遭うだけと思い、こらえるほかありませんでした。

 約2か月後に終戦を迎えましたが、街が焼け野原になってから「戦争は終わった」と言われても、どうしようもありません。

 76年の月日が流れ、「8月15日」がどういう日かを知らない世代が増えてきたと感じています。

 戦後生まれの人にとっては、戦時中の苦労話なんて「不幸自慢」のように聞こえることでしょう。記憶の風化は仕方のないこと、と思います。むしろ若者たちには、自分たちの世代が味わえなかった青春を 謳歌おうか し、平和のありがたさをかみしめ、いつまでも大切にし続けてほしいと願います。

 今年も8月15日がやって来ます。あの悲しみを思い起こしながら、自宅で静かに手を合わせようと思います。(聞き手・吉田清均)

 ◆大阪市都島区出身。14歳で終戦を迎え、戦後はガス会社などで勤務。地域のために国勢調査員を長く務め、2013年春の褒章では「藍綬」を受章した。

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