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関東大震災 渋沢の奮闘 炊き出し■臨時病院■文化財保護

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 1923年9月1日に発生した関東大震災で、深谷市出身の実業家・渋沢栄一(1840~1931年)は地震発生から間もなく、在京県民の救護にあたったほか、貴重な文化財の保護にも尽力した。

 渋沢史料館(東京都北区)の永井美穂学芸員(49)によると、渋沢は東京・日本橋兜町の事務所で地震に遭った。滝野川町(現北区)飛鳥山の自宅に車で帰ったが、当日夜に火災で事務所が全焼し、会社の重要書類や徳川慶喜の伝記 編纂へんさん のための資料などを失った。

 渋沢の身を案じた子どもたちは深谷市への避難を勧めた。しかし、渋沢は「わしのような老人は、こういう時にいささかなりとも働いてこそ、生きている申し訳がたつようなものだ」と断ったという。

 渋沢はさっそく埼玉県から米を取り寄せ、部分的な被害にとどまった自宅を拠点として滝野川町に炊き出しをあっせんした。後藤新平内相の要請を受け、内務省と調整して情報案内所や臨時病院など、被災者のための施設設置も進めた。

 また、内外の実業家に義援金を募り、労働者のための託児所設置や被災外国人の支援など多くの事業に資金を配ったほか、国の復興審議会の委員に就いて東京の港湾整備などを提案した。

 永井学芸員は「渋沢は国内外で起きた災害の対応に熱心で、関東大震災でも民間の立場から迅速に対応した。多様な立場の人に細かく配慮した」と指摘する。

 在京埼玉県人の救護には、月刊誌「埼玉及埼玉人」を主宰し、のちに衆院議員になった山口六郎次も関わっていた。山口は、京橋区(現中央区)木挽町に本部を作って活動を開始。県民が多く住み、被害が大きかった浅草、赤羽などで食料を配給するなど、5万人以上を救護した。

 永井学芸員によると、山口ら救護団の活動は渋沢や元田敏夫県知事らが支援していた。渋沢は地震発生から2か月半後の11月17日、日比谷公園に設置された「在京罹災埼玉県人救護団」のバラックを視察。救護品の配給状況を見た渋沢は「配給行き届きてしかも濫与に陥らず、よく中庸を得たり」と評価し、顧問となって物心両面で山口を支えたという。

 渋沢の視察の様子をとらえた一枚の写真がある。埼玉県出身で日活支配人の根岸耕一の厚意で撮影されたフィルムをプリントしたものとみられ、2010年の渋沢史料館のテーマ展「渋沢栄一と関東大震災」で展示された。

 県立歴史と民俗の博物館で今年3~5月に開かれた特別展でも写真が紹介され、杉山正司学芸員(63)は「渋沢が率先して動いた様子が分かる」と話す。

 震災により、本庄市出身の盲目の国学者・ 塙保己一はなわほきいち が編纂した文献集「群書類従」の版木を保管する、愛染院(東京都新宿区)のレンガ倉庫も倒壊した。

 版木を保管する温故学会の維持会員だった渋沢は国の土地を借り、1927年、温故学会会館(塙保己一史料館)が開館した。斉藤幸一館長(67)は「渋沢は世のために何ができるかに生涯をかけた」と語る。

関東大震災 熊谷で震度6を記録し、埼玉県では東京、神奈川、千葉、静岡に次ぐ被害が出た。春日部付近を中心に古利根川、元荒川流域の地盤が弱い土地で被害が大きく、死者316人、行方不明者95人。全壊家屋は9268軒で、川口では鋳物工場が倒壊した。9月2日以降、都内からの避難者が増え、県は草加など7か所に救護所を設けた。

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2333018 0 ニュース 2021/09/02 05:00:00 2021/09/02 05:00:00 2021/09/02 05:00:00

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