<阪神大震災26年>大切な人守る 誓い新た
完了しました
犠牲の母へ「もっと頑張るよ」
阪神大震災で母親(当時73歳)を亡くした高島市安曇川町の山本昇子さん(73)は、あの日から26年となる17日、自坊の円覚寺で慰霊の読経をささげた。震災後に湖国の寺へ嫁いだ後、防災士の資格を取り、防災啓発を続けてきた。コロナ禍にあっても「自分や大切な人の身をどう守るのか、当事者として考えてもらえるよう、あきらめず伝えていく」と思い定めている。(西堂路綾子)

寺に嫁ぎ防災活動 高島の山本さん
老人ホームの介護福祉士だった山本さんは当時、兵庫県西宮市で両親と妹と暮らしていた。1995年1月16日、神戸市内の勤務先で宿直を終えて帰宅。疲れを癒やそうと睡眠薬を服用し、2階の自室で就寝した。翌17日朝、妹の「地震や」との叫びで起こされるまで、揺れにも気付かず熟睡していた。
自宅は倒壊。1階で寝ていた母・信子さんは夕方、ようやく運び出されたが、既に息はなかった。「普段ならささいな物音でも目が覚めるのに……。人を助けようと福祉の仕事に就いたのに、母1人救えなかった」。自責の念にさいなまれた。
それでも自らを奮い立たせ、西宮市の避難所から神戸市灘区の仮設住宅へ通い、福祉相談員として高齢者の支援にあたった。孤独死、虐待、アルコール依存症などに直面する毎日。「自分の悲しみは後回しだった」
そんな中、知人の紹介で高島市の僧職と知り合い、1996年に結婚した。
新天地では当初、被災体験を明かすつもりはなかったが、知人に請われ、地域の会合などで語るようになる。「母の死を無駄にしないためにも、災害の起きる仕組みや必要な備えを伝えなければ」。2007年に防災士の資格を取得したのは、そんな思いに駆られたからだ。
その年、約40人と市災害ボランティア活動連絡協議会の発足にかかわり、その一員として啓発に一層力を注ぐようになった。
13年9月。ある地区での研修で、住民の大半が「ここでは災害は起きないのでは」と答えたのが忘れられない。その数日後、豪雨で市内の河川が決壊し、街は洪水にのまれた。協議会の仲間と、全国から駆けつけたボランティアの取りまとめや役割分担に奔走した。
その後も市内各地で防災リーダー研修や出前講座を重ねてきた。「避難所への経路、家族との連絡手段、必要な備蓄品、家具の転倒防止、そして近所付き合い。日頃から意識していないと、大切な人や自分を守れない」との思いがある。
震災から四半世紀が過ぎ、当時の母と同じ年齢になった。「救えなかった」との罪悪感は、いまだに消えない。一方で、大規模災害は全国各地で毎年のように発生し、防災・減災を伝えることの難しさを実感している。
この日朝、テレビであの日の映像を見て、すさまじい惨禍だったと改めて思った。法衣を着て本尊に向かい、胸に誓った。「心が何度も折れそうになったけれど、何とか乗り越えてきた。お母さん、コロナにも負けず、もっと頑張るよ」