金皇寺で見つかった毛利輝元による宝生寺の「安堵状」(大田市で)
石見銀山遺跡 毛利氏関連書状5点も
世界遺産・石見銀山遺跡近くに立つ古刹、浄土宗「金皇寺」(大田市仁摩町)から、中世~近代の古文書約300点が見つかった。なかには、同銀山を支配した戦国大名・毛利氏に関する書状5点も確認。同氏による支配の様子や変遷がうかがえる史料といい、県教育委員会は「これまで分かっていなかった戦国時代の銀山周辺に光を当てる貴重な存在」と強調する。(中村申平)
1570年創建と伝わる金皇寺は、住職が2013年に死去した後、後継者がおらず宗教活動を停止。浄土宗や檀家らが、寺を運営する宗教法人の解散手続きを進めており、今回は、寺に保管されている記録などを整理する中で発見された。
古文書の大半は寺の帳簿や記録、檀家から寄付された土地の証文類で、注目は1572年の「毛利輝元安堵状」(縦27・1センチ、横38・6センチ)。確認された史料で最も古く、毛利輝元が金皇寺の末寺「宝生寺」の寺領をこれまで通り保証すると認めた書状だ。この前年に輝元の祖父・元就が死去しており、輝元が後継者になったことを広く示すため、銀山周辺の寺社に発したものと推察される。
ほかには、元就の次男で、金皇寺のある村の領主だった吉川元春が81年、寺所有の土地の保護を許した安堵状(縦29センチ、横45センチ)、その14年後に、毛利氏の銀山代官・南湘院が、土地を吉川氏から毛利氏に変更した際に出した「打渡状」(縦31・5センチ、横49・4センチ)などがある。
県教委文化財課の伊藤大貴研究員は「吉川氏に任せていた銀山周辺の村々を、朝鮮出兵の軍事費負担に対応するため、毛利氏が直接統治に切り替えた思惑が読み取れる史料」と説明した。
また、毛利家家臣の綿貫主税助が1600年、寺から納められた年貢を受け取った際に出した「年貢請取状」(縦27センチ、横29・5センチ)も。請取状は、関ヶ原の戦いの後、銀山の領地が毛利氏から徳川家へ移る時期の文書だ。
見つかった古文書は、昨年末、大田市へ寄贈された。市教委石見銀山課の遠藤浩巳課長は「戦国大名が発給した文書が市内で見つかることは大変珍しく、寺の解散で失っていた可能性もあった。史料の分析を今後も進めたい」と話した。
古文書は20日から4月11日まで、同市の石見銀山世界遺産センターで特別展示される。