<戦後76年>ロシア兵弔い 人類愛継ぐ

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祖父と訪れたロシア兵の墓に参る佐倉さん(西ノ島町で)
祖父と訪れたロシア兵の墓に参る佐倉さん(西ノ島町で)
刀鍛冶として活躍した坂本菊次郎さん(1997年撮影)=佐倉さん提供
刀鍛冶として活躍した坂本菊次郎さん(1997年撮影)=佐倉さん提供

西ノ島で墓守 佐倉さん

父抑留のわだかまり越え

 日露戦争当時のロシア兵の墓が多く残る隠岐諸島では、今も島民らが墓守を続けている。西ノ島町美田の佐倉真喜子さん(85)は、太平洋戦争後に父親がシベリアに抑留され、一時わだかまりを持ったが、それを乗り越え、先人の思いを次の世代につなげようとしている。(佐藤祐理)

 父は刀鍛冶として知られた坂本菊次郎さん(1999年、93歳で死去)。1944年、当時としては高齢の38歳で出征し、満州(現中国東北部)で終戦を迎えた。

 佐倉さんは、終戦を近所の家のラジオで知った。大人は伏せて泣いたが、「戦争が終わったんだ。お父さんが帰るんだ」とはしゃいだ。

 だが、父はすぐには戻らなかった。一家の生活は厳しく、刀鍛冶だったため、「進駐軍が家に来る」といううわさも。父が打った大切な刀が4本ほどあったが、進駐軍を恐れ、父の弟子と佐倉さんの弟は舟を出し、沖合に沈めた。

 父の消息を知る人に聞き、シベリア鉄道のレールを打っているらしいとわかったが、「寒くても仕事の間は暖かい場所にいられるだろう」と、想像するしかなかった。

 父方の祖父は、母子5人で暮らす佐倉さんらを気にかけ、佐倉さんも祖父の田んぼを手伝いに行くことがあった。その度、近くのロシア兵の墓に連れて行かれ、「日露戦争の時、この辺にもロシア兵が流れてきた。手を合わせて水をあげなさい」と言われた。

 佐倉さんは「ロシア人はお父さんを奪って重労働させている」と反発。それでも、祖父は頭をなでながら、「そんなことを言うもんじゃない。死んでしまい、帰れない人たちだよ」と諭したという。

 弟や妹は言われるままに拝んでいた。佐倉さんは2、3度拒んだ後、仕方なく墓前に立ち、心の中で「絶対にお父さんを帰してください」と念じながら、手を合わせた。

「いい人もいた」

 父が帰国したのは、終戦から3年がたった48年。古里に戻っても、食いつなぐのに必死で、抑留について多くは語らなかった。ただ、厳格だった父が子どもに優しくなり、「ロシアにはいい人もいた」と話すことがあった。

 刀鍛冶の腕を聞きつけたロシア住民から、ひそかに鍋や刃物の修理を頼まれ、応じると黒パン1斤をもらったという。常に空腹だった仲間9人で分け合ったといい、「あの黒パンの何とおいしかったことか」と懐かしんだ。

 抑留生活で気付きもあったようだった。「ロシアでは、女性も男性も同じ仕事をしていて賃金も一緒。これからは女性も職を持たないといけない」と語り、食に関心があった佐倉さんを後押しした。

 隠岐高校から栄養士を目指して東京の大学に進み、卒業後は県職員として保健所などで勤務した佐倉さん。ロシアへの思いも次第に変わった。

 退職後、自らも抑留され、ロシア兵の墓守を続けた古老から墓の経緯も聞いた。島の農家も漁師も皆で金を出し、敵だった異国の兵士を弔ってきた歴史を知り、「人類愛に感銘を受けた」。

 今も地域住民とともに国際交流を続け、「若い時に色々な国の人と出会い、視野を広げることは大事。島に伝わる先人の思いを、若者に伝えたい」と心に決めている。

【ロシア兵の墓】 日本海側には、1905年に対馬沖であった日露戦争の海戦などによるロシア兵の遺体が漂着し、住民らが建てた墓が残る。

 調査した松江市の元高校教諭岡崎秀紀さん(70)によると、県内では隠岐4町村や松江、出雲両市に計17か所あり、10か所が隠岐諸島だという。

 隠岐諸島に多く残ることについては「漂流遺体を手厚く葬ると良いことがあるという島の言い伝えや、『自分たちも死ぬかもしれない』と危険な海の仕事に臨む漁師らが、流れ着いた兵士に思いを重ねたためでは」と分析する。

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