文字サイズ

    2年目のスクープ重荷に

    「青春を大根おろしの如く…」

     症状の重い2人が東大病院に向かった――。事態が動いたのは1954年3月15日午後9時すぎだった。

     焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」が同年3月1日、米国の水爆実験で被曝(ひばく)した事件で、東京・銀座にあった読売新聞の本社に静岡支局から新たな情報が入った。

     地方部を経由した原稿を社会部で受けたのは、同年に原子力をテーマにした長期連載「ついに太陽をとらえた」を手掛けたデスクの辻本芳雄と記者の村尾清一(91)。締め切りが刻一刻と迫る中、東京での取材が始まった。

     ■独占取材

     村尾はカメラマンらと東大病院に向かった。事務室で確認できなかったが、各診療科への電話で「外科に真っ黒い人が来た」との情報を入手。外科窓口で看護師に面会を断られたが、「増田」という名前を教えてもらうと、「増田さーん」と呼びながら病棟を駆け上がった。

     3階にいた患者がこっそり指し示した病室に入ると、黒い服を着た男性がうずくまるように寝ていた。甲板員の増田三次郎だった。顔は黒く、髪は抜け、両手は野球のグラブのように腫れていた。

     「あんた、原爆を見たんだろう」。村尾は揺り起こして尋ねると、増田は「漁に行き、灰を浴びて、こんなになった。戦争なら、諦めがつくけれど……」とうなだれた。カメラマンを呼びに行って戻ると、看護師が部屋にカギをかけてしまった。

     その頃、辻本は米国の通信社から、米国が水爆実験をした事実を確認した。

     村尾は「当時は原爆と水爆の区別もはっきり付かない時代。すべてにおいて直前の長期連載が、この大スクープに生かされた」と述懐した。

     焼津では、安部光恭(みつやす)も静岡支局の応援記者らとともに乗組員や漁師の声などを取材。3月16日の朝刊に、「ビキニ原爆実験に遭遇 水爆か」の大きな見出しがついた。

     ■苦悩の記者時代

     米国の極秘実験で日本船が被曝した衝撃的なニュースは世界に配信され、安部は菊池寛賞を受賞し、念願の政治部に配属された。1年先輩の稲葉敦(88)は政治部時代の安部をよく覚えている。「スクープを自身の手柄のようには話さないし、そう紹介されても喜んでいるようには見えなかった」

     安部は、伊東市にある実家の寺を継ぐため、16年余り勤めた読売新聞を69年1月に退社した。安部はスクープ後、どんな思いだったのか、記者時代のアルバムの冒頭に、こんな自筆の言葉がある。

     「青春を 大根おろしの如(ごと)く スリ減らされた 記者時代の 見るも哀れな 絵物語」 

     いまも伊東市の寺に住む安部の妻の勢津子(77)は、安部からビキニ被曝事件をスクープしたと聞かされたのは、ずっと後になってからだったと振り返る。

     「新聞記者は人様のことを書く。だから自分を律しないといけないというのが口癖だった。わずか2年目で取った大きな賞は、あの人には重荷だったのかもしれない」。人に優しく、自分に厳しい安部の心の内を代弁した。(敬称略)

    (この連載は、村上藍、佐藤純が担当しました)

    2014年03月09日 22時31分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    PR
    今週のPICK UP

    理想の新築一戸建て