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    天皇直筆「額」焼失で複製

    後水尾の字「必死に探した」

     平成の大修理で取り外された陽明門の勅額は、その“出生”が謎めいている。誰が筆者なのかを巡り、江戸時代から2説あった。

    • 陽明門の正面上層に掲げられている勅額を外す日光文化財保存会の職員ら(9月20日、日光東照宮で)=山田博文撮影
      陽明門の正面上層に掲げられている勅額を外す日光文化財保存会の職員ら(9月20日、日光東照宮で)=山田博文撮影

     門の正面中央に掲げられ、大きさは縦107センチ、横73センチ。群青の青地に、金泥で「東照大権現」と記され、緑青と金箔(きんぱく)で縁取られている豪華なものだ。

     9月20日、工事担当の日光社寺文化財保存会によって取り外され、ほこりが払われると、額の裏には「元和三年三月廿八日」の刻銘がはっきりと浮かんだ。

     「元和三年」は1617年。東照宮の祭神である徳川家康は元和2年(1616年)4月に亡くなり、翌年2月に朝廷から神号を受けた。そして、2か月後の4月、日光に遷宮された。

     刻銘は、この間に額が制作されたことをうかがわせた。筆者は在位中の後水尾天皇とされる。創建社の楼門に掲げられた後、1636年に完成した陽明門に移され、大切に受け継がれてきた、というのが定説だった。

     それを揺るがす“事件”は文化9年(1812年)に始まった「文化の修理」で起きた。元東照宮神職の高藤晴俊さん(65)は、そのあらましを語る。

     文化の修理の際、勅額などは外され、宝物を収める銅庫に保管された。ところが、その年の冬、火事があり、銅庫にも延焼し、収納した勅額も一緒に燃えた。

     陽明門は、それがあるゆえ「勅額門」とも言われる。詫(わ)びて済まされる話ではない。「そこで裏書きから本物そっくりの複製を作ることになった。焼けた勅額の文字と同じものを必死に探したはずです」。高藤さんは推測する。

     東照宮には当時も現在同様計3面の勅額が掲げられていた。石鳥居、奥社鳥居、そして陽明門の3か所だ。

     古文書で石鳥居は後水尾天皇の筆で一致。だが陽明門は日光図誌(1818年)が後陽成、日光山誌(1837年)は後水尾と2説あった。東照宮の「社家御番所日記」は、火事翌年の記述として、江戸城二の丸東照宮にあった額の筆跡を複製の手本にしたと伝える。これが、なぜか「後陽成筆」とされたのが、後に誤解を招く原因とみられた。

     高藤さんが解説する。

     「『後水尾天皇御聞書』という文献に石鳥居の文字を頼まれた時の述懐として『先年額を染筆……』とあります。この記述から陽明門の勅額は、明らかに後水尾天皇の筆と考えられます」

     さらに別史料では「鳥居楼門」に額を請われたという記述もある。「書体は異なりますが、陽明門と同時に奥社鳥居の額も書いていたことをうかがわせます」。つまり勅額は3面とも後水尾天皇の筆――との結論だ。

     江戸城の紅葉山東照社にあった勅額が現在、徳川記念財団にある。「それは陽明門の勅額と書体もそっくりで、裏の刻銘も同じ日。恐らく後水尾天皇の原本が大切に保管されていて、それを基に同形の額がいくつか作成されたのでしょう」と高藤さん。

     では、なぜ後陽成説が出たのか。「天皇の書は無署名が慣例。今のように史料を自由に分析することも難しかったはずで、後陽成天皇も書が有名だから時代が下るにつれ、わからなくなったのでしょう」

    2013年12月06日 00時48分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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