文字サイズ

    科学的サッカーへ転機

    代表DF  小沢通宏さん81

    • 代表合宿で練習中の小沢さん(小沢さん提供)
      代表合宿で練習中の小沢さん(小沢さん提供)

    ◇大舞台敗因 感情論で分析できず

     1956年メルボルン五輪のサッカー予選で日本代表として出場し、ディフェンダー(DF)として活躍した小沢通宏さん(81)。東京五輪では代表から外れたが、第一線で活躍を続け、現役引退後もJリーグ・サンフレッチェ広島の創設に関わるなど、日本サッカーと共に歩んできた。(中村徹也)

    ■まさか自分が 

     〈東京教育大(現筑波大)在学中、初めて代表合宿に呼ばれた〉

     大学では教員を目指して勉強していました。アルバイトもしていたので、サッカーとの両立は大変でした。

     3年生のとき突然、代表合宿に声がかかりました。私は、足の速さには少し自信がありましたが、天才的なプレーができる選手ではありませんでした。だから、まさか自分が呼ばれるとは思っていませんでした。

     合宿では、途中から県立宇都宮中学校(現県立宇都宮高校)時代の同級生、岩淵(功)も一緒になりました。彼のドリブルは天才的でした。私は負けず嫌いな性格でしたから「岩淵だけには負けないぞ」という気持ちで練習に臨んでいました。

     〈韓国との接戦の末、五輪の切符をつかんだ〉

     大学卒業後、東洋工業(現マツダ)入社2年目に、メルボルン五輪予選で代表デビューしました。

     予選は、韓国と2試合を戦い、成績の良い方が本戦へ進むというものでした。初戦を岩淵のゴールを含む2―0で制し、第2戦は0―2で敗れました。1勝1敗で得点数も同じだったことから、最終的にくじ引きで日本の本戦出場が決まりました。当たりくじを引いた瞬間、選手たちみんなで万歳をして喜んだのを、今もはっきりと覚えています。

     予選後の9月、本戦に進むメンバーが発表され、私と岩淵が選出されました。五輪は「高根の花」と思っていましたから、新聞で選出を知った瞬間、「しっかりやらなければ」と気を引き締めました。

    ■本戦で0―2 

     〈しかし、五輪で開催国の豪州に敗れたことが日本の転機になった〉

     五輪本戦の豪州戦、前半にPKで先制され、後半にも追加点を許して0―2で敗れました。豪州の選手は体格が大きいため、豪快なシュートを繰り出す手ごわい相手でした。技術はあまり高いとは思いませんでしたが、力や大きさにひるんだのかもしれません。DFとして、懸命にボールをはね返しましたが、岩淵たちフォワード(FW)が得点できるようにボールを運ぶことはできませんでした。

     当時の日本は試合に負けたとき、敗因をきちんと分析する風潮にはなかったと思います。どちらかと言えば「次戦は大和魂を持って戦う」とか、感情論が多かったですね。

     この敗戦を機に、勝つための科学的な分析をしようという機運が高まりました。これが、サッカー先進国の西ドイツ(当時)からデットマール・クラマーさんをコーチに呼ぶことにつながったのだと思います。

    • 1960年頃、日本代表の合宿に参加した小沢さん(後列左から3番目)
      1960年頃、日本代表の合宿に参加した小沢さん(後列左から3番目)

    ■東京は呼ばれず 

     〈主将として臨むつもりだった東京五輪で、まさかの代表落選〉

     1964年の東京五輪直前、私は代表チームの主将を務めていたこともあり、「チームを本戦で自分が支えるんだ」という気持ちでした。代表メンバーの発表を自宅のテレビで見ていましたが、私の名前は呼ばれませんでした。自国開催の五輪には特別な思いがありましたから、本当に落ち込みました。後で、クラマーさんには「おまえの動きは良かったんだけどな」と声をかけられました。

     〈悔しさをばねに、天皇杯を獲得した〉

     東洋工業に戻り、65年度の天皇杯や、日本サッカーリーグの優勝を達成できたのは、このときの悔しさがあったからだと思います。

    ■教え子は2000人以上 

     〈34歳で引退後、若手の育成にまい進した〉

     34歳のとき、上司から「そろそろ仕事をするときじゃないか」と言われ、引退を決意しました。仕事では、国内だけでなく、思い出の地のメルボルンや、米国でも働きました。

     サッカーの指導も続けました。メルボルンで現地の日本人の子供にサッカー指導をしたことがきっかけになり、75年からは広島県でもサッカースクールを始めました。

     スクールでの40年近くの指導の間に、教え子は2000人以上を数えています。日本のサッカーが発展していくために、子供の練習の場を整えていくことが大切だと思っています。

    • 日本サッカー殿堂入りし、盾を手にする小沢さん
      日本サッカー殿堂入りし、盾を手にする小沢さん
    • 年間最優秀選手のトロフィーを前に五輪を振り返る小沢さん(13日、広島市の自宅で)
      年間最優秀選手のトロフィーを前に五輪を振り返る小沢さん(13日、広島市の自宅で)

    ◇おざわ・みちひろ

     1932年12月25日、宇都宮市出身。旧制県立宇都宮中(現宇都宮高)でサッカーを始め、全国高校蹴球選手権大会で優勝。東京教育大(現筑波大)に進学し、全国大学蹴球選手権大会で優勝した。55年に東洋工業(現マツダ)に入社し、翌年のメルボルン五輪予選で日本代表入りを果たす。62年、年間最優秀選手賞。64年の東京五輪代表選考では落選した。34歳で引退し、北米マツダ副社長、マツダ本社取締役総務部長などを歴任。広島県内でのサッカースクールの設立や、Jリーグ・サンフレッチェ広島の創設にも携わる。今年、日本サッカー協会の殿堂入りを果たした。

    ◇一流選手のメンタル聞いてみたい

     県立宇都宮高校サッカー部主将の鈴木港斗さん(16)

     「全国高校サッカー選手権県大会では、シード校ながら初戦で敗退してしまい、完全燃焼できませんでした。小沢さんのことは、先生の話や、インターネットで知りました。大舞台で活躍した先輩がいることは誇りです。来年1月に学校を訪問してくれるそうなので、一流の選手のメンタルのあり方についてお話を聞いてみたいと思っています。2020年の東京五輪開催が決まったとき、少しだけ出場を意識しました。小沢さんに続いて、五輪に出てみたいという目標も持ちながら、今後も練習していきたいです」

    2014年11月23日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    PR
    今週のPICK UP

    理想の新築一戸建て