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    「島守」の恩沖縄忘れず

    ~荒井退造・上

    • 荒井退造=島守の会提供
      荒井退造=島守の会提供

     荒井は芳賀郡清原村(現在の宇都宮市)の農家の次男として生まれた。裕福な家庭ではなく、家計を助けるために一時、働いた後、旧制宇都宮中学(現在の宇都宮高校)に進学。卒業後は警視庁に勤務しながら大学に通い、高等文官試験に合格した。内務省に採用され、各地の警察署長などを歴任し、1943年、沖縄県の警察部長に就任した。

     戦況の悪化に伴い、44年7月、警察部に疎開を担当する特別援護室を設置。知らない土地で過ごすことへの不安から沖縄県民は疎開に消極的だったため、荒井は各警察署長に命じて、警察官を各家庭に訪問させ、疎開の必要性を説かせた。

     当時の知事も、航海中の船舶が米軍の潜水艦に撃沈される事件もあったことなどから、疎開に否定的だったが、荒井は「県民が助かる道は疎開しかない」と考えを曲げなかった。

     荒井は警察署長会議で「家族を安全な場所に避難させてから、職務にあたるように」と訓示。警察官の家族に手本となるよう、率先して疎開をさせた。

     同年10月、那覇が米軍の空襲を受けると、知事や一部の幹部が那覇を離れ、県庁は機能停止状態となった。そんな中、荒井は疎開の受け入れ地の確保や食糧増産などの業務も行った。

     45年1月に就任した新知事の島田あきらは荒井に同調。疎開業務を内政部に一括し、強力に疎開を推し進めた。沖縄から県外や日本統治下にあった台湾に約7万3000人、本島北部への疎開は約15万人とされる。

    • 荒井と島田知事の終焉の地の石碑。この裏には、荒井が消息を絶った軍医部壕がある(7月4日、沖縄県糸満市で)
      荒井と島田知事の終焉の地の石碑。この裏には、荒井が消息を絶った軍医部壕がある(7月4日、沖縄県糸満市で)

     沖縄戦が始まり、県庁と警察部は砲撃を逃れるため、4月に那覇市の「県庁・警察部壕」へ移った。戦いが激しさを増す中、5月25日、荒井は島田とともに南へ向かった。6月7日には、沖縄県糸満市の「とどろきの壕」で県庁と警察部を解散。日本軍の沖縄守備軍司令部がある摩文仁の丘(糸満市)に移った。
     組織的戦闘が終わって3日後の同月26日、荒井と島田はこの地で消息を絶った。「軍医部壕」を出た後、自害したとの説もあるが、遺骨は見つかっていない。




    ◆沖縄戦

     1945年3月26日、米軍が沖縄本島西方の慶良間諸島に上陸。4月1日には本島に上陸し、激しい地上戦を経て、6月23日、本島南部の司令部壕(ごう)で日本軍司令官が自決して組織的戦闘が終結した。沖縄県平和祈念資料館によると、死者は日本側が一般人9万4000人、軍人・軍属9万4136人、米国側は1万2520人。


    ◆摩文仁の丘 並ぶ塔

    • 摩文仁の丘に立つ島守の塔
      摩文仁の丘に立つ島守の塔

     今、摩文仁の丘は平和祈念公園として整備されている。都道府県ごとに戦没者をまつる塔があり、「栃木の塔」は南方戦線で戦死した約3万1000人の栃木県出身者の慰霊のため、66年10月に建てられた。碑板には、足尾の御影石や大谷石が使われている。

     一方、荒井ら殉職した沖縄県職員469人をまつる「島守の塔」は51年6月に建立された。毎年6月23日に慰霊祭が行われ、多くの沖縄県民が祈りをささげる。


    • 南方戦線で亡くなった本県出身者をまつる栃木の塔(沖縄県糸満市・摩文仁の丘で)
      南方戦線で亡くなった本県出身者をまつる栃木の塔(沖縄県糸満市・摩文仁の丘で)

     島守の塔と、栃木の塔は並んで立っている。「不思議なことに、この二つの塔の間には境がないんですよね」。島守の塔を管理し、荒井や島田の追悼行事を行う財団法人「島守の会」事務局長の島袋愛子さん(67)はそう話す。それ以外の都道府県の塔はそれぞれ柵や塀で隔てられている。「帰れなかった故郷と守ろうとした沖縄の二つの塔が並ぶのは、偶然ではない」と島袋さん。「荒井部長が命をかけて、沖縄県民のためにしてくれたことを我々は忘れてはいけないんです」

     島守の塔の後ろにある石段を上がった先には、荒井と島田の名を刻んだ「終焉しゅうえん之地」の碑が塔を見下ろすように立っている。







    ◆轟の壕 狭い穴 赤痢こらえ任務

    • 轟の壕の入り口に立つ島袋さん。壕は入り口からほぼ垂直に地下へ伸びている(7月4日)
      轟の壕の入り口に立つ島袋さん。壕は入り口からほぼ垂直に地下へ伸びている(7月4日)

     今年7月、島袋さんの案内で、轟の壕に入った。ひっそりとたたずむ壕には、激戦の爪痕や悲しい物語の数々が残されていた。

     壕はサトウキビ畑や塀に弾丸の痕が残る古い集落付近にあった。巨大な自然洞窟を利用しており、急な階段を下りていくと、途中、拝所があり、花やお菓子が供えられていた。

     40メートルほど下りると、地下に向かって穴が開いている。入り口付近の岩肌は、米軍の火炎放射器で焼かれ、現在も黒く焦げており、不気味な雰囲気を漂わせる。

     ヘルメットをかぶり、懐中電灯を手に、人一人がやっと通れるほどの狭い穴に体を入れ、さらに約10メートル急斜面を下る。天井から突きだした鍾乳石に頭を打たないように気をつけながら、ゴツゴツとした岩場を腰をかがめて進むと、土の地面が開けた。「荒井部長がいた場所です」と島袋さんが説明を始めた。

     戦争とはいえ、知事や警察部長が生活する場所には思えなかった。「これが沖縄戦の現実なんです」と島袋さん。荒井はこの壕で10日ほど過ごした。当時、アメーバ赤痢にかかっており、連日、高熱と下痢に苦しみながら部下に指示を出したり報告を受けたりしていたという。

     洞窟内にはほかにも広い空間があり、積み重なる大きな岩に数百人もの避難者が座っていたとの証言がある。

     荒井や島田が沖縄守備軍司令官の牛島満中将と会うため摩文仁の丘に向かった後、この壕に多くの日本兵がなだれ込んだ。黒砂糖を取り上げられたことに反発した子どもを日本兵が射殺する事件が起きたという。

    2015年08月10日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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