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    激戦少年警察官を転属

    • 上原さんは「荒井部長は近くで砲弾の音が響いても動じなかった」と語る(沖縄県浦添市で)
      上原さんは「荒井部長は近くで砲弾の音が響いても動じなかった」と語る(沖縄県浦添市で)
    • 県庁・警察部壕の中にある巨大な石灰岩の柱(那覇市で)=太田晶久撮影
      県庁・警察部壕の中にある巨大な石灰岩の柱(那覇市で)=太田晶久撮影
    • 県庁・警察部壕内で見つかった万年筆=沖縄県平和祈念資料館提供
      県庁・警察部壕内で見つかった万年筆=沖縄県平和祈念資料館提供

    ~荒井退造・中

    ■生き延びて恩人語り部に

     沖縄戦の激化で、荒井退造は1945年3月25日、「県庁・警察部ごう」(現在の那覇市真地)に入った。2か月間、壕で生活しながら、東京の内務省に沖縄の住民たちの状況を伝えるなど、職務にあたった。当時の荒井の奮闘ぶりを知る数少ない生き証人から話を聞いた。

     沖縄県浦添市の元警察官、上原徹さん(86)は16歳の時、沖縄県警察部長だった荒井に仕えた。

     上原さんは旧制中学校を卒業後、45年3月、※少年警察官として採用された。短い訓練を受け、4月に警察部長書記室に配属された。既に沖縄戦が始まっており、警察部は県庁・警察部壕に入っていた。

     主な任務は食糧や水を調達することだった。壕内で荒井や島田あきら知事に食事を持って行ったり、壕の外の様子を報告したりしていた。

     壕内の荒井の部屋は、カーテンで仕切られており、中の様子は分からなかった。荒井と言葉を交わしたのは、食事を持って行く際や、壕の奥にあったトイレに護衛で付き添う時に限られていた。「荒井部長は上司の中でも雲の上の存在。話すことも恐れ多い感じがした」と振り返る。

     壕の外で砲弾の音が響いても、荒井は毅然きぜんとしていた。常に堂々としている姿に、上原さんは憧れを抱き、人生の目標にしていたという。「巡査から苦学して、高等文官試験に受かり、官吏になった努力家と先輩から聞いていた。一生懸命勉強すれば荒井部長のようになれるんだと思っていた」

     戦闘が激化し、5月中旬、島田と荒井は県庁・警察部壕を出ることを決意した。上原さんは「来るべき時が来たか」と思ったが、上司から「君は若いから付いてくる必要はない」と、糸満署への転属を言い渡された。

     「当時の人事権者は荒井部長。まだ若い私の身を案じて、配置換えしたのかもしれない」と上原さんは話す。島田に「糸満署に行きます」と報告すると、「体を大事にしなさい」と、貴重だった黒砂糖を渡してくれたという。

     糸満署では避難民の誘導などを行ったが、間もなく警察部は解散。安全と言われていた本島北部へ中学の同級生と一緒に向かった。しかし、途中で同級生は米兵に殺害され、自身は捕虜となり、生き残った。

     戦後、長らく戦争について語ることはなかった。首がない遺体、飛び散る人の肉片――。過去の記憶を思い出すのが苦しかったのと同時に、一緒に逃げた同級生を見殺しにしたという思いが強かったからだ。

     数年前、「島守の会」事務局長の島袋愛子さん(67)に説得され、「沖縄県の恩人である荒井部長や島田知事を知らない県民もいる。語り継がないといけない」と、小学校などに出向いて、戦争体験を伝えている。

     「今思えば、荒井部長や島田知事は私に『生きろ』と伝えてくれていた気がします。知っている限りのことを伝える。それが私にできる2人への恩返しです」。上原さんは穏やかにそう話した。

    ※少年警察官

     戦時中、人手不足を補うため、全国の警察で採用されていた。職務内容は警察官の補助事務で、栃木県警察史によると、県内では1938年に募集を開始。対象は16歳以上18歳未満の高等小学校卒業者だった。

    ■市町村長ら避難協議 45年4月27日

     今年7月、那覇市繁多川公民館館長の南信乃介さん(34)の案内で、県庁・警察部壕に入った。

     壕は首里城の南側の高台にあり、入り口周辺は、沖縄特有の亀甲墓と呼ばれる大きな墓が並ぶ。「この壕は首里城、太平洋、東シナ海と四方を見渡せる高台にあるため、シッポウヂヌガマと呼ばれています」。南さんが説明してくれた。

     45年4月27日、砲弾をかいくぐって十数人の市町村長がこの壕に集まり、会議が開かれた。警察署長会議と合同で、那覇方面から南下する避難民の受け入れなどについて話し合った。

     ロープをたよりに斜面を下り、中に入ると、暗がりに巨大な石灰岩でできた乳白色の柱が見えた。「会議が開かれた場所はあそこです」。南さんが柱の裏側に開けた空間を指し示した。

     南さんが軍靴を拾い上げた。当時、この壕には県庁職員など約100人がいたとされ、今でも、生活品が見つかるという。

     入り口から別の方角に細長く延びる坑道を進むと、荒井が使っていた部屋があった。岩壁を砕いて作った約2・5メートル四方の部屋は当時のまま。荒井はこの部屋で碁や将棋を楽しむこともあったという。部屋の入り口からは、2007年に荒井のものとみられる碁石や万年筆が見つかった。

     さらに10メートルほど進むと、島田の部屋もあった。島田はここで愛読書の「南洲翁遺訓なんしゅうおういくん」を読んでいたという。

     この壕で荒井は8人の警察官を選抜し、内務省に戦況を克明に報告するよう指示した。8人は5月12日早朝に出発したが、東京へたどり着いたのは1人のみ。それも8月15日を過ぎていたという。

     「60万県民ただ暗黒なる壕内に生く――」。荒井は、この壕を出た5月25日、内務省宛てにそう打電した。「荒井部長はこの壕で頭を悩ませていたのでしょうね」と、南さんは当時に思いをはせた。

    ■見つかった万年筆

     県庁・警察部壕で見つかった碁石と万年筆は、東京都日野市に住む荒井の長男・紀雄さん(故人)に届けられた。その後、万年筆は紀雄さんから沖縄県平和祈念資料館(同県糸満市)に寄贈された。

     同館によると、荒井が執務室としても使用していた部屋の前から見つかったことと、当時、地位の高い人が使用していた金色のペン先をしていたことから、荒井が使っていた可能性があると判断された。

     碁石は発見者の一人で郷土史家の知念堅亀さん(81)など複数の人が保有している。

    2015年08月11日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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