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    命救った2人伝える

    ~荒井退造・下

     

     

     沖縄戦で沖縄県警察部長として約20万人の住民を疎開させて命を救った荒井退造と、県知事の島田あきら。2人の功績を後世に伝える活動に取り組んでいる人たちに話を聞いた。

     

    ◆郷土史家 知念堅亀さん81

     

    ◇最期の経路 詳細研究

    • 荒井と島田の研究を続ける知念さん(7月4日、那覇市で)
      荒井と島田の研究を続ける知念さん(7月4日、那覇市で)

     那覇市繁多川の郷土史家知念堅亀さん(81)は、沖縄戦のさなか、荒井と島田がごうを転々としながら糸満市・摩文仁の丘で消息を絶つまでの道のりを研究している。

     20年ほど前、親族から「県庁・警察部壕」について尋ねられたことがきっかけだった。1945年4月25日から1か月間、県庁としての機能を果たしていたことは知られていたが、沖縄戦史や警察史を見ても具体的な場所の記述はなかった。知念さんは、警察部のOBや壕に入ったことがある人を訪ね歩き、場所を特定。以降、何度も壕に入り、調査を行ってきた。

     さらに、島田が同年5月25日に県庁・警察部壕を出た後、6月26日に摩文仁の丘で消息を絶つまでの経路について、島田の警護官を務めた人への聞き取りや現地調査からまとめた。

     一方、荒井は共倒れを避けるため、島田とは別のルートで移動していた。摩文仁の丘に向かう途中、立ち寄ったとされる地点は分かったものの、ルートは明らかになっていない。

     知念さんは、当時を知る人の証言を集めているが、沖縄戦を語りたがらない人は多いという。知念さん自身も那覇から本島南部へ向かう途中に砲弾を受け、両親や姉を失った。

     「戦争の話をするのはつらい。私も例外ではない」と知念さん。しかし、「子や孫のためにも、戦争体験を伝え、記録を残していかないといけない」と調査をやめることはない。

     現在は、島田と荒井が居た県庁・警察部壕と、首里城近くにあったという沖縄守備軍の司令部壕とを行き来したルートについて調べているという。「島田知事や荒井部長が通った道を若い人たちに歩いて追体験してもらいたい。きっと平和の大切さを分かってもらえると思う」と、言葉に力を込めた。

     

     

    ◆元沖縄副知事 嘉数昇明さん73

     

    ◇島田知事の手紙 保管

     元沖縄県副知事の嘉数かかず昇明さん(73)は、「島田叡氏事跡顕彰期成会」の会長として、島田と荒井の功績を後世に伝えている。

    • 父・昇さんが島田から託された手紙を大切に保管している嘉数さん(7月、那覇市で)
      父・昇さんが島田から託された手紙を大切に保管している嘉数さん(7月、那覇市で)

     戦争中、県議だった父・昇さんは、島田から県民の疎開先の熊本、宮崎、大分の各県知事に宛てた手紙を託され、九州へ渡り、終戦を迎えた。昇さんが1974年に亡くなった際、遺品の中から熊本県知事宛てに島田が書いた手紙が見つかり、嘉数さんは大切に保管している。

     「多くの県民が荒井部長や島田知事が進めた疎開で命を救われた。2人は本土の出身ながら沖縄に思いを寄せてくれていた」と嘉数さんは話す。

     嘉数さんは2004年8月、沖縄国際大に米軍ヘリが墜落した事故後の対応に副知事としてあたった。立ち入り調査ができるよう国に求めたが、取り合ってもらえなかったという。「県民に寄り添った島田や荒井の姿勢を語り継がないといけない」と、13年、顕彰の会を設立した。

     島田は学生時代、野球選手として活躍したため、夏の高校野球県大会の決勝が行われる奥武山公園(那覇市)に島田の顕彰碑を建てた。今年6月26日に開かれた除幕式には、島田の出身地である兵庫と、沖縄の両県知事が出席した。

     嘉数さんは荒井についても「周囲の反対を押し切って疎開を進めたその功績は大きい。出身地の栃木とも交流を深めていきたい」と話している。

     

     

    ◆公民館館長 南信乃介さん34

     

    ◇小中教諭を壕に案内

    • 県庁・警察部壕を案内している南さん(7月)
      県庁・警察部壕を案内している南さん(7月)

     那覇市繁多川公民館館長の南信乃介さん(34)は地域の小中学校の教師たちを県庁・警察部壕に案内している。

     9年前、同公民館勤務となり、管内に壕があったことから、荒井と島田のことを知った。今年5月には、当時を知る人や追悼活動を行う人を集めて島田と荒井に関する座談会を開いた。

     南さんは、沖縄戦を生き抜いた人たちが、高齢で次々と亡くなっていることに危機感を感じている。「若い人たちも、県民のために奮闘した荒井部長のことを知ってほしい」と、地域の中学校で開かれる平和演劇で島田と荒井を取り上げるよう提案する予定という。

     

     

    ◇元部下遺族 宇都宮へ

     那覇市金城の伊野波進さん(78)は今年6月、宇都宮市上籠谷町にある荒井の墓や母校の宇都宮高校を訪ねた。

     父親・盛和せいわさんは沖縄県警察部の警防課長として荒井を支えた。伊野波さんは、沖縄戦が始まる前年の1944年に7歳で熊本県八代市に疎開した際、小舟から見送った盛和さんの姿を覚えている。

     盛和さんは45年6月、沖縄県の窮状を東京の内務省に伝えるため、沖縄本島を出発したが、途中で米軍の襲撃に遭い、亡くなったとされている。遺骨は見つかっていない。

     「当時、父は41歳。荒井部長と年が近いこともあり、話すことも多かったようです」と伊野波さん。那覇空襲と沖縄戦で実家は焼失し、盛和さんの遺品は何も残っていないという。

     伊野波さんは荒井や島田の追悼行事を行う一般財団法人「島守の会」の会員。慰霊祭に毎年出席しており、荒井の名は聞いていたが、詳しいことは知らなかった。

     今年6月、栃木県の郷土史家らが企画した荒井の追悼イベントに招かれ、荒井の生涯について話を聞いた。伊野波さんは「荒井部長のことを知れば知るほど、父が心から尊敬していたのだろうと感じる」と話した。

    2015年08月14日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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