「湾生」のつらい境遇語る

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写真や資料を手に台湾時代の思い出や映画について語る冨永勝さん(北島町の自宅で)
写真や資料を手に台湾時代の思い出や映画について語る冨永勝さん(北島町の自宅で)

 ◇台湾で生まれ戦後日本に引き揚げた冨永勝さん91

 日本統治下の台湾で生まれ、戦後日本に引き揚げた人たちを「湾生わんせい」と呼ぶ。「古里は台湾。愛着と感謝を忘れたことはありません」。北島町の冨永勝さん(91)は懐かしそうに振り返る。温暖な気候と豊かな食生活。そして温かく接してくれた現地の人たち――。思い出を支えに、戦後のつらい暮らしにも耐えた。台湾のドキュメンタリー映画(2015年)の出演を機に、体験と台湾への思いを語り続けている。

 1927年、台湾東部ののどかな農村地帯で生まれた。地元の幼なじみと、隠れんぼや鬼ごっこをして野山を駆け回った。食べ物に苦労した覚えはない。親が雑貨商を営み、日本では希少品のパイナップルやバナナを普段から口にした。

 台湾を離れたのは、台南師範学校(現・台南大学)の2年生だった19歳の時。敗戦後の46年4月だった。「雪が見たい」「立派なビルが並ぶ都会らしい」。日本での生活に希望を抱いた。だが、鹿児島の港に着き、鉄道で広島、岡山をたどって両親の古里徳島へ向かう途中、広がった焼け野原を見て「大変なことになった」と不安になった。

 暮らしの厳しさは想像以上だった。家は牛小屋を改装し、板を敷き詰めた。貯金はすぐに底をつき、台湾から持ち帰った砂糖と交換して食料を得た。母と弟、妹を食べさせるために代用教員として働き、大学へも通って教員免許を取り、ようやく生活が安定した時には30歳を過ぎていた。

 つらかったのは、幼少期に日本での共通の体験がなく、周囲に溶け込めなかったこと。台湾での豊かな生活をよく思われなかったこともあった。「古里はやっぱり台湾なんだ」。自然と口が重くなった。

 ようやく体験を語れるようになったのは、3年前、88歳の時。台湾のドキュメンタリー映画「湾生回家かいか」への出演がきっかけ。映画では、台湾を訪ね旧友と再会して涙したシーンなどが描かれた。映画を見た多くの台湾の若者が湾生の境遇に胸を打たれ、体験を直接聞きたいと自宅まで訪れてくれた。「私の話で、また違った戦争の不幸を伝えられるのでは」と思った。

 北島町で1月20日、映画が上映され、舞台あいさつで経験を語った。「機会があれば、日本の若者たちにも語ってみたい」。やっとそう思えるようになった。

 ◆取材後記

 ◇日本思う気持ち伝わる

 冨永さんは高校で長年、古文を教えた後、大学で国文学を研究した。台湾で生活をしていた時、日本語の表現の豊かさに興味を持ち、枕草子など平安時代の古典を読みふけったという。

 取材では台湾を古里と強調していたが、枕草子をそらんじる姿を見て、日本を思う気持ちが伝わってきた。

 湾生は約20万人いるとされ、徳島を故郷とする人も多いと聞いた。映画では徳島の風景が何度も映し出された。取材で1世紀近い冨永さんの人生に接しながら、徳島と台湾の深いつながりを感じた。(柏木利章)

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5354 0 人あり 2018/02/01 05:00:00 2018/02/01 05:00:00 写真や資料を手に台湾時代の思い出や映画について語る冨永勝さん(北島町の自宅で) https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20180131-OYTAI50017-1.jpg?type=thumbnail

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