休耕地に 実り再び
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◇県産ソバの栽培に挑む 竹中均さん46
就農して6年目の春を迎えた。米や小麦、野菜も手がけるが、主力はソバ。借り受けた休耕地と耕作放棄地計15ヘクタールで4年前から栽培し、1年目0・8トンだった収穫量は、昨年には5倍近い3・8トンまで増えた。父親の建設業を継ごうとUターンした18年前には、考えてもいなかった。農業の担い手不足が深刻な中、県産ソバの栽培に挑みながら、地域の農業を支えている。
美馬市出身。重機の操作や測量など土木関連の資格を約30種類も持つ異色の農家。かつての本業は建設業だった。「遠いところで働いてこい」と父親に言われ、高校卒業後、東京都内の建設会社などで働いた。
10年後、徳島道が開通した2000年に、いずれ家業の建設業を継ごうと28歳でUターンした。だが、これ以上大型事業は見込めないと考えた父親は、家業をたたみ、農業に専念。
その後、地元で建設資材の営業マンとして働いていたが、自宅の田畑で米や野菜づくりにいそしむ父親の姿を見るうちに興味がわき、「なんとかなるだろう」と、農業の世界に飛び込んだ。40歳での決断だった。
しかし、現実の厳しさをすぐに思い知らされた。野菜の価格は不安定で、「ギャンブルで暮らしを立てようとするようなもの」と痛感。農機の修理代だけで年100万円かかった。「自分の日当はいくらになるのか」と、がくぜんとした。
そんな中、「市場ニーズとは関係なく、農家が作りたいものを作っているからもうからないのでは」と考えるようになった。
異業種交流の場に参加した14年、需要の高い農作物について話していた時、出席者から「ソバがいいのでは」というアドバイスをもらった。その後、ソバの提供を考える企業も紹介され、「作った分だけ引き取る」と後押しを受けた。
かつて年間収穫量が100トン以上あった県産のソバは30~40トンまで減少していたが、需要と販路があれば、増産につながると確信。重機を操り、耕作放棄地などを借りて懸命に開墾した。栽培では試行錯誤を続けながら、実りを多くするために水はけや土作りの改良を重ね、秋だけでなく春まきにも挑むなどし、収量増を実現した。
作業は自らの田畑だけにとどまらない。後継者不足で、好立地の農地でも雑草が覆い尽くす光景に「もったいない」と感じ、所有者の農地再生にも力を入れる。これまでに約60アールをよみがえらせた。
農業に託す思いは、「実りをもたらす田園の風景を守り、人と人をつなぐこと」。農業を通した人の輪は着実に広がっている。「まだまだ四苦八苦しています」と話しながらも、ソバの白い花が一面に広がる吉野川沿いの畑を満足そうに眺めていた。
<たけなか・ひとし> 1972年、美馬市生まれ。Uターン後、建設関連の会社以外にも、自動車部品工場での勤務や食品卸会社、建設資材の営業を経験した。竹中さんの農業への転身を受け、妻直美さん(45)は4月、小麦粉の販売会社「実森(みもり)ラボラトリー」を設立。竹中さんが栽培する小麦を使い、パンやクッキーの製造・発売を始め、国の6次産業化認定も受けた。
◆取材後記
◇人と人 つなぐ笑顔
朝は午前7時には農場に到着。昼食は自宅や近所で手早く済ませると、また日没まで作業をこなす。ソバと麦の収穫後は稲作。春はとりわけ忙しく、雨の日も休みはない。「家に帰ったら本当に『バタンキュー』。でも本当に毎日が楽しい」と屈託がない。
タフさだけでなく、驚かされたのは人とのつながりの深さ。取材中も「草刈り機を貸して」と電話があったり、養蜂に取り組む青年から巣箱を置く相談を受けたり。よみがえらせた休耕地の大半は「使ってほしい」との依頼を受けたものだったそうだ。笑顔が絶えない人柄に接し、徳島の農業には欠かせない人物だと感じた。(浦一貴)