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住民に退去強制/特攻訓練
「太平洋戦争末期、ここに旧海軍の市場飛行場があり、立ち退きや家屋取り壊しの被害を受けた人がいた。しかし、その存在は町民にすら知られていないんです」
強い日差しが照りつける8日の昼下がり。阿波市市場町の市場図書館。「市場飛行場を語り継ぐ会」会長の二條和明さん(71)が、約20人を前に熱く語った。
飛行場の建設は唐突だった。1945年3~4月、軍は住民を集め、「1週間以内に立ち退け。立ち退かない場合は家屋財産を焼き捨てる」と通告。憲兵が立ち会い、説明は10分程度だったという。
家を指令室として接収された北岡淑子さん(93)は当時を思い出す。「(嫁ぎ先の)母が青い顔をして帰ってきた。母は病身、自分は身重だったので、大変なことになると思った。戦後になって『いらん苦労したな』と近所で言い合った」
飛行場がおおむね完成したのは5月下旬。紀伊水道に面した徳島航空基地(松茂町)から西約30キロの高台。1200メートルの滑走路1本ができた。セメントは用意できず、一部に芝生を張った。練習機「白菊」や偵察機「彩雲」が敵艦船に体当たりする飛行訓練をしたという。検問所や飛行機の格納庫、弾薬保管庫も造られ、終戦まで拡張工事が続いた。
二條さんは「本土決戦に備えた急ごしらえの飛行場だった。もう少し早く造られ、戦争が長引いていれば、ここから特攻機が飛び立っただろう」と話す。
戦後、飛行場は元の田畑や町の施設に姿を変え、戦争遺構は埋もれた。
シベリアに抑留された元満蒙開拓青少年義勇軍の松村廣保さん(97)は言う。「若者は兵隊で外地にいたから、飛行場のことは知らない。昭和24年に帰国した頃、すでに痕跡があったかどうか。このあたりの人も話をしなかった」
その存在が知られるようになったのは、平成に入ってからだ。地元の郷土史家大塚唯士さん(故人)らが立退者の会を結成。滑走路があった市場中学校グラウンドの近くに碑を建て、立ち退き被害が判明した全住民約120戸の名前を刻んだ。戦後50年の95年8月のことだった。
飛行場建設に動員された学生や航空隊員らの聞き取り調査も行い、「松の枝をくくりつけたみこしのようなものを置いて滑走路を偽装した」「軍の指示で飛行場を牧場、農場と呼ばせていた」など、多くの証言を集めた。
やがて会員のほとんどが亡くなり、二條さんら戦後生まれの数人が12年前から活動を引き継ぐ。
「当時を知る人に会っても、新しい発見はなかなかない。年1回の講演会も欠席の連絡が増えており、関心は広がらない。しかし、これを伝え続けることが戦争を繰り返さないことにつながる」。二條さんの切なる願いだ。
(辰巳昌宏)
本土決戦基地 裏付ける資料
練習機「白菊」7、偵察機「彩雲」4、「九七式艦上攻撃機」7。市場飛行場の「兵器軍需品引渡目録」には、3機種計18機が戦後、連合国に引き渡されたことが記されている。同飛行場では書類が焼却され、飛行機も各地へ飛び去ったとされる。しかし、資料からは終戦時に「白菊」などが存在していたことが裏付けられた。
「徳島白菊特攻隊を語り継ぐ会」の大森順治さん(73)が、国立公文書館・アジア歴史資料センターのホームページで見つけた。
大森さんは同じホームページで「軍極秘」の印がある「設営隊戦時日誌」も探し出した。それによると、<6月26日、決号作戦施設ニツキ協議>とある。本土決戦へ向けて何らかの話し合いが行われていたことをうかがわせる。同月末で<下士官・兵計699人><全弾薬保有数2880発>と記録し、7月の日記では、<可及的遠隔セル
大森さんは「市場飛行場は訓練用の基地として始まったとしても、明らかに決戦に備えて武器をため込んでいる。終戦時には『とことんやるぞ』という実戦用の基地になっていた。そう考えるのが妥当ではないか」と話す。