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武蔵野市と三鷹市の境を流れる玉川上水には、線路のレールが埋め込まれた小さな橋がかかる。比較的新しい橋なのに、レールが使われている様子はない。その経緯を調べると、戦争を支えた軍需工場がたどった軌跡や、歴史を後世に伝えようとする関係者たちの地道な努力が見えてきた。(広瀬誠)

玉川上水にかかる10メートルほどの「ぎんなん橋」がつくられたのは、2011年3月のこと。橋と並行してほぼ南北に走る「都道12号」の歩道として整備された。都道が開通する前は橋がなく、都が都道の開通に合わせて橋の建設を決めたという。
当時、都北多摩南部建設事務所で設計担当係長を務めていた妹尾健司さん(53)によると、工事に向けた調査を進めたところ、玉川上水ののり面に古いコンクリート製の橋台が見つかった。この橋台は、現在の武蔵野市役所周辺に所在し、戦時中に軍用機のエンジンを製造していた「中島飛行機武蔵製作所」と武蔵境駅とを結ぶ鉄路の引き込み線を支えるものだとわかったという。
零戦などのエンジン 24時間操業で製造
同製作所は、資材などを運搬する引き込み線の整備を要するほど、戦時下で重要な役割を担わされた。
市立武蔵野ふるさと歴史館などの資料によれば、同製作所は1943年に陸軍と海軍の工場が合併して誕生。約56万平方メートルの敷地内で勤労動員された学生や生徒を含む約5万人が働き、24時間操業で旧海軍の零式艦上戦闘機(零戦)などのエンジンを製造していた。
しかし、巨大工場は米軍の格好の標的となる。サイパン島などを占領した米軍は44年11月、爆撃機B29を真っ先に同製作所に派遣した。終戦までに計9回の空襲が行われ、工場だけで200人以上が死亡。周辺の住民数百人も巻き込まれて死亡したとされる。生存した住民は引き込み線を伝って南へ逃げ、現在ぎんなん橋がある橋を越えて竹やぶなどに逃げ込んだという。

同館は、米国の公文書館から航空写真などの資料を集め、空襲の実像に迫ってきた。米軍は引き込み線の位置まで事前に把握していたといい、同館の公文書専門員を務める高野弘之さん(45)は「米軍は計画的に急所を狙った。東京大空襲は広い地域が対象だが、製作所への精密爆撃には米軍の偵察力や合理性が生かされた」と説明する。
引き込み線は戦後、工場跡につくられた野球場などを結ぶ鉄道として利用されていたが、次第に使われなくなって50年代末に廃止。その後、撤去された。
「地域の歴史を伝える」取り組み広がる
それから半世紀後。当時都北多摩南部建設事務所の妹尾さんは都道を整備するに当たって、工事の妨げとなる橋台の取り扱いを検討したが、「戦跡としての価値がある」として橋台を撤去せずに保存することを決定。歩道用の橋は底部が薄いアーチ状のデザインを採用。同製作所の数少ない遺構である橋台を壊さずに残すことができた。
ぎんなん橋として完成した橋には、かつて引き込み線が通っていたことがわかるように、中古の線路のレールが埋め込まれた。「橋はずっと残るもの。地域の歴史を伝えられるようにしたかった」。妹尾さんはそう話す。
大軍需工場だった同製作所の面影はほとんど地域には残っていないが、それでも歴史を伝えようと努力する市民もいる。
製作所跡地につくられた武蔵野中央公園から約200メートル南にある「延命寺」。平和を祈念して境内に建てられた「平和観音
展示を発案したのは、戦前から同寺に住み込む住職の中里崇亮さん(85)=写真=だ。中里さんは戦時中、製作所を狙った空爆を何度も経験しており、空襲警報が鳴る中を命からがら逃げ回ったつらい記憶は、今も鮮明に残っている。
「子供たちに恐ろしい体験をさせたくない。戦争が起きたことがわかるものを示し、二度と戦争を起こしてはならないという教訓を後世に伝えなければ」。中里さんはそう力を込める。