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海岸奏でる音色 次代に

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鳴り石の浜でごみを拾い集める岩田さん(左、琴浦町で)
鳴り石の浜でごみを拾い集める岩田さん(左、琴浦町で)

「鳴り石の浜」の清掃を続ける 岩田弘さん 85

 大小さまざまな石が敷かれたように広がる琴浦町赤碕の「鳴り石の浜」。潮にもまれて丸くなり、油をかけたような照りがあることから地元で油石と呼ばれる石は、波でぶつかり合って「ゴロゴロ」「カラコロ」と音を奏でる。全国でも珍しいこの自然海岸を40年以上にわたって清掃している。

■    □

 浜まで100メートルほどの所で生まれ育った。「石の音がする方がよう寝よったです」と笑う。

 赤碕の海は昔から、寒天などになる海藻のテングサ採りが盛んだった。採れるのは「6月15日から」と決まっていた。その日から小学校を1週間休んで一日中海にもぐった。いい収入源となり、鉛筆やノートを買ったり祭りの小遣いにしたりできた。

 中学生になると、6月は1人だけ学校を休み、朝からおけを担いで上半身裸で海へ通った。道ですれ違う登校中の先生に「学校来ないけんがな」と言われたが、「3日間休みます」と告げて浜に走った。京阪神への修学旅行はテングサ採りでためた金で行くつもりだったが、ほんの少し足りずに断念した。それでも「海のおかげだわいな」と自然の恩恵に感謝する。

 卒業後は家業の石材店で働きながら海にもぐった。父の出身地・島根半島(松江市)にいた漁師の兄の影響で、山口・下関を拠点とする漁船団の一員として各地の海を巡った時期もあった。船を下りて、看板を作る米子市の広告美術会社に就職してからも、いでいればもぐってから午後に出社するなど、暮らしの中心はいつも海だった。

 30歳過ぎの時、水中で撮影できるカメラ「ニコノス」を米子市のカメラ店で注文した。当時の月給は7000円。5か月分の値がしたが、どうしてもほしくて買った。

 その頃は高度成長期で、赤碕では自然海岸の護岸工事が始まった。消波ブロックを並べてコンクリートで壁を設ける。10キロ近くの石の海岸線がなくなっていった。鎌倉時代の元寇げんこう後に造られたとみられる数キロの石塁も壊され、子どもの遊び場はなくなり、海底に海藻も生えなくなった。

 「みんな石の音を聞きながら大きくなった。これを残さないと」。仲間とともに1か所だけでも自然のまま残してほしいと訴えた。水中カメラで撮りためた写真を生かして、赤碕の海の生態を伝える展示会を開催。「鳴り石の浜」と名づけて貴重さを発信すると、思いが通じて世間の理解が広がり、海岸は数百メートルだけ残されることになった。

 中止を訴える際に「お願いばっかりじゃいけん。やめてもらう代わりに海岸はきれいに掃除するけえ。わしが元気な間は続けます」と誓った。それが80歳を超えた今も続く。「いったん男が約束しとって、怠けたらいけん」

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 浜の保全は、「鳴り石の浜プロジェクト」として地元住民らに受け継がれ、今年で10年となった。展望台や歩道の整備、イベントの企画なども手掛けており、多くの人が訪れる観光スポットに育った。

 3月には、町立赤碕小6年の約40人が浜にやって来て、卒業記念として、海水で溶けても環境にやさしいペンで将来の夢を書いたラグビーボールほどの石を海に投げ入れた。「看護師」「パン屋」「自然を大切にする人になりたい」――。「岩田のおっちゃん」と慕ってくる子どもたちが石に込めた思いを海へと託す姿を温かく見守った。

 今も穏やかな日は海に入る。「海藻やら生き物を見る。子どもの時に出会ったものがそのままあると、なんだか安心する。心の中は子どもの頃と変わらんだけん」。そう言って、無邪気な笑顔を見せた。

(中筋夏樹)

 <いわた・ひろし> 1935年、琴浦町生まれ。家では「足が冷えると調子が悪い」とこたつに入り、煎茶を飲んで過ごす。赤碕の子どもたちからは「海の神様」と呼ばれることもあり、2019年には環境保全活動に尽くしたとして、緑綬褒章を受章している。

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2090824 0 人あり 2021/06/01 05:00:00 2021/06/01 05:00:00 仲間と浜のごみを拾い集める岩田さん(左)(琴浦町赤碕の鳴り石の浜で) https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/05/20210531-OYTAI50008-T.jpg?type=thumbnail

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