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海軍航空隊供養09年に途絶


真言密教の聖地・高野山に、太平洋戦争末期の1年間だけ、軍部の拠点があった。「高野山海軍航空隊」だ。戦没した隊員らを悼む供養塔が今も奥の院にひっそりと立つ。その存在を知らない人も多く、記憶の風化が懸念されている。(大田魁人)
風化防止へ遺品展示 本王院
深い緑に囲まれ、こけむした戦国武将らの墓が並ぶ奥の院の参道に、高野山海軍航空隊の「平和祈願供養塔」がある。側面には、戦地で命を落とした隊員60人の名前が記されている。
世界的な信仰の中心地に航空隊ができたのは、終戦1年前の1944年8月15日。海軍の飛行予科練習生の基礎教育の場として山上に開かれた。隊員や教官は山内の寺院に泊まり込み、山内には早朝の起床ラッパや号令が響くようになった。金剛峯寺の前にあった日本庭園は広場になり、訓練が行われたという。
報恩院住職の山口耕栄さん(89)は「雪が積もる中で腕立て伏せをする隊員の姿が印象的だった」と振り返る。
計約6000人の隊員の中には、米戦艦に体当たりする特攻艇「震洋」への搭乗を命じられ、命を落とした人もいた。45年8月15日、終戦とともに解散した。
84年に戦没者の追悼法要を開始、供養塔は87年に建立された。中心になって取り組んだのは、高野山の航空隊で教官を務め、終戦後に僧になった本王院の野中義孝住職(故人)だった。
孫で本王院の現住職の細川真永さん(45)によると、野中さんは出征経験があるという。「教え子が戦死したにもかかわらず、自分は生き延びたという複雑な思いがあったのだろう」と推しはかる。
法要は毎年開かれていたが、関係者の高齢化で2009年を最後に途絶えた。本王院では遺族から元隊員の納骨依頼などがあれば対応しているが、最近はほとんどない。細川さんは「宿坊の宿泊客はもちろん、地元の人でも高野山に航空隊があったことを知らない人が増えている」と言う。
その史実を一人でも多くの人の記憶にとどめようと、本王院では、隊員の遺族らから奉納された遺品や資料を展示している。新規入隊を祝って寄せ書きされた国旗や、軍手、リュック、特攻艇「震洋」の模型などがガラスケースに並ぶ。細川さんが宿泊客に、展示品を説明しながら航空隊について話すこともあるという。
細川さんは「この一大霊場にも大戦の戦禍は飛び火した。祖父の思いを受け継ぎ、戦没者を弔いながら、その歴史を伝えていく」と語った。