大村益次郎の書簡確認 前原家文書から複数

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徳川慶喜が大坂城(石山城)へ移ったことなどを記した書簡(松陰神社蔵)
徳川慶喜が大坂城(石山城)へ移ったことなどを記した書簡(松陰神社蔵)

 明治維新の志士、前原一誠の子孫から萩市の松陰神社に寄贈された資料の中の「前原家文書」(約2200点)に、幕末の緊迫した情勢下で大村益次郎から前原に宛てた複数の書簡が含まれていることがわかった。そのうち3通を精査した三宅紹宣・広島大名誉教授は「部分的にしか知られていなかった書簡の全文がわかった。軍事専門家の大村が冷静に情勢分析していたことが裏付けられる」と評価している。(大石健一)

 3通のうち、1867年(慶応3年)12月16日付の書簡では、王政復古の後、最後の将軍徳川慶喜が長州、薩摩藩側に譲歩するかどうかで揺れていた京都の情勢を「治平争乱境ト相考へ」と表現。戦争か平和かの境目となる緊迫した状況にあり、長州藩の海軍頭取だった前原に、戦争となった場合とならなかった場合について、それぞれの備えを依頼している。

 また、慶喜が京都から大坂城(石山城と表記)へ移った後の12月25日付書簡では、慶喜が籠城して対立が長引くと、様子見の諸藩が動揺し、薩長側が不利になると危機感を吐露する。

 旧幕府軍が大坂城を出て鳥羽伏見の戦いで薩長軍に敗れた後の翌年1月12日付書簡では、長州から山陰道を東上する出兵計画を記載。瀬戸内海と山陽道からの東上はよく知られているが、より堅実な三方面からの出兵計画だったことを明示している。

 三宅氏は「薩長が武力討幕を目指す中、大村はあらゆる危険性を想定しており、軍事的なリアリズムが見て取れる」と指摘。前原家文書について「貴重な原本が公開された意義は大きい。中身の分析で新発見があるかもしれず、多くの研究者に活用してもらいたい」と話した。

 三宅氏の3通に関する研究は「山口県史研究第27号」(今年3月刊)で紹介されている。

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580941 0 ニュース 2019/05/14 05:00:00 2019/05/14 05:00:00 2019/05/14 05:00:00 徳川慶喜が大坂城(石山城)へ籠城したことなどを記した書簡 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/05/20190513-OYTNI50012-T.jpg?type=thumbnail

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