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    「御文庫付属室」公開

    朽ちた「終戦聖断の場」…皇居「御文庫付属室」公開

     昭和天皇が終戦の「聖断」を下した皇居内の御文庫おぶんこ付属室(地下防空ごう)。宮内庁は1日付で、戦後70年を経た内部の写真や映像、関連資料を「玉音放送」原盤とともに公開した。

     310万人が犠牲になった大戦の終結を決断した歴史の舞台は、床が抜け、壁ははがれ、往時の姿はない。朽ちるに任せているのは、昭和天皇の意向があったからという。

    最後の御前会議

    • ※御文庫付属室 大本営会議などを開くため、日米開戦前の1941年9月に軍が建設。42年7月、約100メートル南西に昭和天皇の防空用住居「御文庫」(地上1階、地下2階)も完成、戦局が悪化した43年1月から天皇が毎日寝起きするようになり、戦争末期は空襲警報の度に約135メートルの地下通路を通って付属室に避難した。地下通路は現在、埋められている。御文庫の名称は、防空施設であることを隠すための隠語との説がある。
      ※御文庫付属室 大本営会議などを開くため、日米開戦前の1941年9月に軍が建設。42年7月、約100メートル南西に昭和天皇の防空用住居「御文庫」(地上1階、地下2階)も完成、戦局が悪化した43年1月から天皇が毎日寝起きするようになり、戦争末期は空襲警報の度に約135メートルの地下通路を通って付属室に避難した。地下通路は現在、埋められている。御文庫の名称は、防空施設であることを隠すための隠語との説がある。

     皇居・吹上御苑の奥、武蔵野の面影を残す濃い緑に囲まれた一角に「聖断」の場となった付属室がある。

     「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、一致協力、将来の回復に立ち直りたい」

     1945年8月14日、昭和天皇は、付属室で開かれた御前会議で、改めて終戦の決意を伝えた。抗戦か和平か意見が拮抗きっこうする中、聖断は4日前、同じ場で下されていたが、陸軍が無条件降伏に抵抗し、再度の聖断だった。

     涙をぬぐうように頬を白い手袋で触る天皇。室内は政府や軍の首脳らのむせび泣きで満たされた。

     「必要ならマイクの前に立とう」。2度にわたる聖断の言葉をもとに「終戦の詔書」がまとめられ、深夜、宮内省(当時)庁舎で、天皇の朗読が録音された。

     翌15日正午、天皇は付属室で開かれていた枢密院会議を中断、隣室に移り、ラジオから流れる自身の玉音放送を聞いた。皇居の外では、初めて天皇の声を聞く国民が、敗戦を知った。

    松代移転に難色

    • 御文庫付属室の補強工事の思い出を語る元近衛兵の今井栄吉さん(7月15日、千葉県市川市で)
      御文庫付属室の補強工事の思い出を語る元近衛兵の今井栄吉さん(7月15日、千葉県市川市で)

     サイパン、フィリピンと「絶対国防圏」の要衝が陥落し、戦局が悪化した44年以降、本土空襲が相次いだ。そこで求められたのは、付属室の強化だった。

     陸軍は当時、長野・松代まつしろに巨大な地下壕「松代大本営」を構築し、昭和天皇を移して、本土決戦に臨もうともくろんでいた。だが、松代に立てこもることは一億玉砕を意味する。天皇は、松代行きに難色を示したとされる。

     日米開戦が迫る41年9月、陸軍が50日間の「戊号演習」で完成させた付属室。だが、連合軍は想定を上回る強力な爆弾を使用し、皇居に残る天皇を守るため、補強工事が急務だった。

     付属室上部に新たにコンクリートと鉄筋の層を重ねる工事は「一号演習」と呼ばれた。任に当たったのは、天皇と皇居を警衛する近衛師団。45年6月から7月末まで、のべ12万人を要した工事に22歳の上等兵だった今井栄吉さん(92)(千葉県市川市)も加わった。

     近衛師団の営庭から、生コンを積んだトロッコを4~5人がかりで押して数百メートル先の付属室に運んだ。

     夜を徹しての作業だったが、「陛下の馬前で戦うのだ」と士気は高かった。

     今井さんは、休憩中に昭和天皇に出くわし、「体が硬直した」と振り返る。一方で不安も感じた。「皇居の防空壕を補強するのでは、いよいよ負け戦では」と。

    今後も補修せず

     歴史の転換点を見守った付属室だが、70年間、維持管理が一切行われず、放置されてきた。

     代々の宮内庁幹部の間で、「維持管理は無用」との昭和天皇の考えが引き継がれてきた。「国民が食糧難に苦しむ中、多額の費用をかけて維持する必要を認めなかったのだろう」。幹部の一人はそう推し量る。

     公開に先立ち、皇太子さまと秋篠宮さまも付属室を視察された。宮内庁は今後、定期的に立ち入って記録は残すが、補修などはしない方針だ。

    厚さ30センチ鉄扉、赤じゅうたん…「重厚な雰囲気」面影なく

     クリーム色の天井にラワン材が貼られた壁、赤じゅうたん。「聖断」が行われた会議室は、地下深くにあるとは思えないほど、重厚な雰囲気を漂わせていたという。

     45年8月10日と14日の2度の御前会議を描いた絵画が残されている。画家の白川一郎氏が描いたものは、62年から、御前会議の出席者からの聞き取りを重ねて、完成させた。

     宮内庁は今回、戦中の平面図などを基に作成した詳細な間取り図を公表した。

     付属室は厚さ3メートルのコンクリート壁で囲われた29メートル×27メートルのほぼ正方形。各部屋や廊下ののべ床面積は計約390平方メートル。会議室の広さは60平方メートルで、外側には厚さ30センチの鉄製の扉、内側には木製の扉があった。

     だが、同庁が公開した写真では、会議室の床は、腐食して抜け、壁の化粧板もはがれていた。鉄扉の緑色の塗装も剥げ落ち、濃い赤さびが浮いている。

    荒廃 タヌキのねぐらに

     機械室は、天井からダクトが垂れ下がり、さびた発電機も見える。各部屋にギンナンなどがちらばり、タヌキなどのねぐらになっていることがうかがえる。

     荒廃を進めたのは、70年の歳月と湿気だ。同庁が内部を撮影した7月15日、室温は16~17度だったが、湿度は80%以上。天井や壁から滴がぽたぽた落ちていた。

     「昭和天皇」などの著作がある日本大の古川隆久教授は、「道を誤った国家が一つの結末を迎えた場であり、文化財的価値がある。50年前に公開された写真は原形をとどめており、激しく朽ちてしまったのは非常に残念だ」と語った。

     皇居「御文庫付属室」公開の動画はこちら。

     皇居「御文庫付属室」の写真特集はこちら。

    復元・保存検討すべきだ

     御厨貴・東大名誉教授(日本政治史)の話「玉音放送の原盤音声と付属室内部の公開で、終戦という日本国民が将来にわたって記憶すべき歴史的な瞬間を、耳と目で理解することができるのは大変意義深い。原盤の昭和天皇の声は、重々しい既存の音声と比べて若々しく、初めてラジオで国民に呼びかける緊張感と、終戦を受け入れてほしいという真剣な思いが伝わってくる。付属室は、日本の命運が決まった場所であり、宮内庁は復元や保存を真剣に検討すべきだ」

    歴史の舞台貴重な公開

     所功・京都産業大名誉教授(日本法制文化史)の話「昭和天皇が戦争末期、軍部から松代大本営に移動を勧められても断固として動こうとされなかったのは、国民を危険にさらして自分だけ安全な所に身を置くことはできないと考えられたのだろう。『自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい』と終戦を決断した歴史的な場。戦後70年、付属室は忘れられた存在だったが、現状が公開されるのは、後世の日本人に残すべき貴重な記録といえる」

    (編集委員 沖村豪、社会部 太田雅之、小野沢記秀)

    2015年08月01日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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