文字サイズ
    あの夏

    死ぬなら前座より二ツ目…落語家 三遊亭金馬さん 86

     「おい、お前、二ツ目にしてやるぞ!」

     昭和の名人、先代(三代目)三遊亭金馬が突然、前座のあたしに“昇進”を告げました。1945年8月18日、終戦から3日後のことです。

     「世間のウワサじゃ、アメリカ兵が来たら、若い男はみんな殺されちゃうかもしれない。お前だって、前座より二ツ目で死んだ方がいいだろう」

     師匠、どこまで本気だったのですか……。

     1941年、小学校を出たばかりのあたしは、先代金馬の弟子になりました。そして、その年の冬に戦争が始まったのです。以来4年間、戦火の中で、たった一人の少年前座として働き通しました。二ツ目昇進はそのごほうび、米兵うんぬんは、きっと師匠の照れ隠しだったのでしょう。

     「東京中が火の海になって、噺家はなしかがみんないなくなっても、俺は一人でも東京に残って、寄席や放送に出るんだ」

     「飲む打つ買う」をテーマにした落語は、時節柄ふさわしいものではありませんよね。世間の目やお上の顔色をうかがい、時流におもねることもあったでしょう。でも師匠金馬は、どんなに戦局が激しくなっても、落語家としての意地を張り通しました。

     子供のあたしに、師匠の落語への思いが理解できるわけありません。でも、「この人のいうことを聞いていれば間違いない」と信じ、夢中で師匠の背中を追いかけた。「明日死ぬかもしれない」なんて考えたこと、一度もありませんよ。

     戦後のどさくさでの昇進、いわば「ポツダム二ツ目」のあたしは、ようやく戦争が終わったことを実感し、寄席と慰問と空襲に明け暮れた駆けだし落語家の日々をかみしめたのです。

    焦土の下町涙のち笑い

    • 三遊亭金馬さん
      三遊亭金馬さん

     「大きくなったら何になる」と戦前の子供に聞けば、答えは「兵隊さん」に決まっています。

     「立派な軍人になって、お国のために働きなさい」と毎日学校で言われ、その気になったあたしも予科練を夢見ていたのに、SPレコードで柳家金語楼師匠の「兵隊落語」を聞いたとたん、「兵隊」より「落語」の方が好きになった。

     「落語家になる」と決心したのは、小学校の卒業時。伝手つてをたどって寄席の支配人に相談しました。

     「まだ子供だから、うるさい師匠にしつけてもらうほうがいいな。落語家でうるさいといえば……金馬さんだ!」

     三代目金馬師匠は爆笑落語『居酒屋』で売れに売れ、寄席やラジオに引っ張りだこです。口やかましく、皮肉屋で意地っ張り。でも情の濃い師匠でした。

     寄席の楽屋にも戦争の影が伸びてきました。「※禁演落語」の制定です。「吉原や花柳界のネタなど53種の落語を封印する」と落語家自らが宣言したのです。

     八代目桂文楽師匠の十八番『明烏』も、古今亭志ん生師匠の『居残り佐平次』も禁演落語ですよ。駆けだし前座のあたしは「落語界の一大事」と本当に心配しましたが、寄席は何も変わりません。大っぴらとはいかないけれど、禁演落語も演じられていたのです。

     軍の慰問でも、一番喜ばれるのは、花魁おいらんが登場するような落語でした。

     つまり、禁演落語は「我々もお国に協力しているのだから、落語を大目に見てください」というお上や世間に対するアピール、落語家の方便だったんです。

     寄席の敵は、禁演落語より空襲ですよ。1944年以降は空襲が激しく、寄席どころではなくなりました。近所が焼け野原になって廃業したり、軍部に接収された寄席もありましたね。

    師匠「なぜ最初に顔見せない」

     1945年3月、東京大空襲の夜が来ました。

     あたしはおふくろと2人、錦糸町駅前にある繁華街「江東楽天地」の空き店舗で暮らしていました。

     「今日は米軍機が多いな」と思ったら、いきなり爆弾の雨。錦糸町駅が火だるまになり、楽天地の邦画封切り館「江東劇場」も火を噴いて――。何とか生き延び、翌日、おふくろと2人で師匠を訪ねたら、今度は怒りの爆弾が落ちてきた。

     「バカヤロウ、なぜ最初にうちへ来ない。テメエが生きてるか死んでるか、四谷から錦糸町まで自転車こいで行ったんだぞ!」

     師匠、自転車下手なんですよ。苦労して両国橋を越えたら、死骸が累々と。もうこいでいられないから、自転車担いで楽天地まで行ったというんです。

     泣きながら怒る師匠。うれしくて申し訳なくて、涙が止まらなかったなあ。

     終戦の日は、引っ越しでした。目黒の碑文谷に屋敷を持ってるお客さんに「空襲が怖いから疎開する。金馬さん、空いた家に無料で住んでもらえませんか」といわれ、越したとたんに天皇陛下の放送が始まった。「ホラ戦争、負けちゃった」。師匠はどこか達観したような顔でした。

     そうしたら、そこのご主人が「もう疎開することはない。あたしはここに住むから、金馬さん、出てってください」。引っ越しの当日に追い出されちゃった。

     その3日後にあたしの二ツ目昇進が決まったんです。落語家は二ツ目になれば一人前に扱われる。だけど、あたしはちっともうれしくなかった。だって後輩が入ってこないから、威張る相手もいないんですよ。

     再開した寄席は、どこもお客さんであふれていました。明日のお米の算段もできないのに、みんな笑いにやってくるんです。

     戦争が終わった。これから思う存分落語が出来る。でも16歳の「ポツダム二ツ目」は師匠について行くだけです。二十数年後に師匠の後を継ぎ、四代目金馬を襲名するなんて夢にも思いませんでした。

    • 東宝が請け負った子ども会で腹話術や紙芝居を行う金馬さん(1943年頃)
      東宝が請け負った子ども会で腹話術や紙芝居を行う金馬さん(1943年頃)

     さんゆうてい・きんば 1929年、東京生まれ。1941年、12歳で三代目(先代)金馬に入門。NHKテレビ「お笑い三人組」(1956~66年)で人気者に。1967年、四代目を襲名。現役落語家では最長の高座歴を持つ。落語協会顧問。

     ※禁演落語 開戦直前の1941年10月に始まった落語界の自主規制。遊郭、間男(不倫)、エログロなどを扱った53種の落語を「時節柄ふさわしくない」との理由で、浅草・本法寺に建立した「はなし塚」に封印した。事実上の口演禁止措置は、終戦後の1946年9月まで続いた。

    「禁演落語」生き残り策

     現・金馬さんの師匠、三代目(先代)三遊亭金馬は終戦まで東京に残った。

     三代目の“主戦場”は、寄席と放送局。落語家として生きるため、東京で頑張り通したのである。

     1945年5月25日の「山の手大空襲」で三代目の自宅も焼失した。金馬師弟は東北での慰問演芸会に出演中、「大空襲」を知った。三代目は「東京は広い。大丈夫だよ」と、震える若い歌手を励ましたが、帰京すると歌手の家は助かり、我が家だけが丸焼けだった。

    • 三代目 三遊亭金馬
      三代目 三遊亭金馬

     当代金馬さんは「禁演落語は方便」と看破した。評論家の野村無名庵や講談落語協会会長の六代目一龍斎貞山など、禁演落語選定の中心とされる人々は東京大空襲で命を落とし、資料も散逸したため、「なぜ禁演落語だったのか」という問いへの正解は不明のままだ。

     ただ、禁演落語を封印した「はなし塚」は今も浅草・田原町の本法寺境内にある。浅草近辺は東京大空襲で焦土と化したのに、なぜか「はなし塚」だけが焼け残ったのだ。

     東京で戦った先代金馬と、方便としての禁演落語。落語家たちは戦火の中をのらりくらりと生き抜き、落語という芸を今に残したのである。

    聞き手 編集委員 長井好弘  撮影 鈴木竜三
    2015年08月02日 09時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
    おすすめ
    PR
    今週のPICK UP
    PR
    今週のPICK UP
    ハウステンボス旅行など当たる!夏休み特集