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    あの夏

    格好良く死ぬ 信じた15歳…環境経済学者 宮本憲一さん 85

     「玉音ぎょくおん放送」の数日前だった。海軍兵学校・防府分校(山口)の庭でベートーベンの交響曲が鳴った。空襲で校舎が壊滅して悄然しょうぜんとしていた我々生徒に、「元気を出せ」と教官の一人が異例のレコードコンサートを開いてくれたのだ。その気持ちがうれしかった。

     あの夏、私は海軍兵学校に入ったばかりの予科生徒で、「いかに格好良く死ぬか」しか考えない職業軍人の卵だった。

     生まれ育ったのは植民地の台湾である。当時の台湾は戦時一色で、米軍上陸は台湾だといわれて精鋭の主力部隊が移駐していた。

     台湾の少年は「何らかの形で戦争に参加しなければならない」という気持ちにさせられていた。私も「進む道は軍人しかない」と感じ、「ならば海軍兵学校だ」と思った。学校では生徒を1人ずつ呼び出して「海軍の予科練に行って航空兵になれ」「行きたくないなら理由を言え」と説得した教師もいた。

     昭和20年3月。中学3年を終えると男子全員が2等兵にさせられた。予科練に行くことになった同級生は駆逐艦に乗せられ、沖縄近海で潜水艦に撃沈されて死亡している。

     難関の試験を通った我々だけは特別扱いで、途中まで零戦の護衛つきの輸送機で本土に来た。思えば、ひどい差別だが、私には憧れの「海兵入学」だった。それがわずか5か月で幕切れを迎えたのである。

     「天皇陛下の意思に従って矛を収める」「海軍兵学校は一切の証拠を消し、直ちにお前たち全員を故郷に帰す」

     熱い日差しが照りつける校庭で聞いた「玉音放送」の内容はよくわからなかったのだが、教官からこう告げられた。

     私はすべての支えを失った。あの時、15歳。「ゼロからの出発」だった。

    復員列車 すがる被爆者

    建物も人も消えた…戦争こそ環境破壊

    • 宮本憲一さん
      宮本憲一さん

     海軍兵学校が消えてしまった。泣いた者もいた。隣の通信学校では全員が完全武装し「戦争は継続だ」と息巻いていた。それが当時の軍人精神だったのだろう。だが、私は「自分はどうすればいいのか」しか考えられなかった。

     台湾の両親と連絡が取れず、独りぼっちの私は8月24日、山口から無蓋貨車の復員列車に乗り、父の本籍がある石川県を目指した。

     あの夏が転換点だった。壊滅した街をいくつも通り、原爆が落ちた直後の広島に近づいた。死体を焼く臭いがする。建物も木も何もない。列車はやがて広島駅で立ち往生した。すると、悲惨な姿をした多くの家族がホームに集まってきて「俺らも列車に乗せろ」と騒ぎ、小競り合いになった。

     夕暮れが近づいていた。全面戦争とはこういう結果をもたらすのか。都市も生物も消滅する。私はそれが初めてわかった気がした。

     環境経済学が生涯の課題になるのだが、戦争こそ最大の環境破壊だと考える原点が、あの光景にある。

     あれから3度の転機があった。最初が金沢の旧制第四高等学校(四高)への入学。自分が何者かを証明するものといえば、行李こうりにあった海軍兵学校の合格電報だけ。それを石川県の学務課長に見せて必死に頼み、旧制金沢二中に編入してもらった。「海兵」で数学と物理を鍛えられたおかげで翌春、四高に合格できた。

     「何を読んでもいい、そこから自らの思想を追究するのだ」と言われた。私はここで初めて自由と民主主義にふれる思いがした。

     この春、母が3人の幼い弟たちと引き揚げてきて、生活の方は極貧となった。

     線路工事から闇屋まで何でもやった。その時に初めて懸命に働く貧しき人々を知った。自分の外にある社会のことなど考えもしなかった私は目を開かされ、社会科学に興味を持った。

     次の転機は名古屋大学に進んで社会思想史の水田洋先生に出会った時だ。古代から説く先生の雄大な講義を聴き自分の浅薄さに気づいた。「人間の思想には偉大な流れがある。社会運動をするだけではだめだ。研究者になろう」と思った。

     転機の三つ目は財政学者として歩き始めた1961年、三重・四日市で石油コンビナートからの煙で大変な公害が発生するのを知った時だ。ぜんそく患者の半数が子供や老人。歩くだけで目がチクチクした。

     近代経済学は経済活動に伴う人命損失や環境破壊を市場経済の「外部性の問題」として片づけていた。マルクス経済学も貧困は問題にするが環境破壊を止める理論がなかった。人々が生活するための基盤である環境の破壊から経済学を洗い直す必要があると思った。

     あれから国内外の多くの公害現場を歩き、日本環境会議などの組織を創設して若い研究者とともに救済や予防の研究を続けた。公害とは、経済成長のシステムを変えない限り生産から廃棄まで経済の全過程で起こる社会的な災害だった。

     この70年を振り返る時、高度成長の成果に対する賛辞が多いだろう。だが、その陰で世界を驚かせた公害が起き、公害の克服に生涯をかけた名もなき多くの人々の行動があったことを思い出してほしい。その背景には、基本的人権の尊重、地方自治と司法の独立、言論や報道の自由という民主主義があった。

     原発事故が起き、アスベスト災害などの課題もあるので、「公害は終わった」とはいえないが、戦後民主主義の力によって多くの公害を克服した歴史の教訓を忘れてはならない。これが、あの終戦の夏を境にした古い日本と新しい日本の狭間はざまを生き、ゼロから出発した私の願いである。

     地球環境を保全し、平和であって多様な歴史と文化を尊重する「維持可能な社会」。それが実現することを願ってやまない。

    聞き手 編集委員 青山彰久  撮影 平博之

    • 海軍兵学校当時の宮本さん(1945年7月)
      海軍兵学校当時の宮本さん(1945年7月)

     みやもと・けんいち 大阪市立大名誉教授。元滋賀大学長。1930年、台北市生まれ。60年代初頭から公害現場を歩き、都留重人らと救済や予防の理論を構築した。都市論や地域経済論の視点を加えた「環境経済学」の国際的先駆者。

     ※海軍兵学校 帝国海軍の士官養成のために1876年に創設され、最後の78期が入学した1945年まで続いた。入試の競争率は平均約20倍。太平洋戦争中も徹底的な英語教育は継続された。強いエリート主義という批判もあった。

    「高度成長至上」公害招く

    • 四日市公害裁判で原告勝訴の判決後、感想を述べる宮本さん=壇上右から2人目(1972年7月、「四日市公害記録写真集」から)
      四日市公害裁判で原告勝訴の判決後、感想を述べる宮本さん=壇上右から2人目(1972年7月、「四日市公害記録写真集」から)

     焼け跡から高度成長を目指す手法が「拠点開発方式」だった。全産業を均等に成長させるのでなく、開発拠点をつくって石油など素材供給型産業を先に成長させる。そうすれば自動車産業なども発展し、人口が増える。開発で地価が上がれば所得も税収も増え、福祉も向上するとされた。

     石油精製・石油化学・火力発電所などを集積する石油コンビナートを全国に配置する地域開発構想が掲げられ、その先頭を走ったのが四日市だ。だが、実際には深刻な公害が起きた。

     四日市のほか水俣、新潟、富山と裁判が起き、宮本氏らが全面支援した四大公害裁判は全て原告が勝訴した。大都市では公害対策を求める住民運動で革新自治体ができ、国を上回る公害対策が始まった。ついに政府も1970年の臨時国会で、公害対策基本法の全面改正と公害14法の制定に動いた。

     「日本国民は大きなGNP(国民総生産)が幸福への努力の指標と考えてきたが、それは誤りだった」。 72年のストックホルム国連人間環境会議で、日本政府代表の大石武一・環境庁長官(当時)はこう演説した。経済成長にひた走ってきた日本社会のあり方に対する痛切な反省だった。(青山

    2015年08月04日 04時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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