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    あの夏

    「一発で戦争終結」の神話…米作家 リチャード・ローズさん 78

     原爆投下は、日本軍の戦意を失わせる「衝撃と畏怖」戦略でした。一発の爆弾が都市を破壊する惨状を見て、日本の指導者が降伏を受け入れることを米国は期待したのです。広島への原爆投下で終戦が近いと判断したソ連は、対日参戦を早め、日本は降伏しました。

     戦争終結をもたらした決定的な要因は、原爆だけではありません。しかし、米国民の多くは、広島と長崎への原爆投下で戦争が終わったという「神話」を信じ、今も原爆の使用を正当化しています。

     沖縄戦で日米双方に多くの犠牲が出て、米国はさらなる米兵死傷者が予想された日本本土への上陸作戦を回避したかった。原爆は非人道的な兵器で、戦争犯罪にあたるとの非難もあるでしょう。しかし、ハリー・トルーマン米大統領(当時)は、戦争を終結させ、米兵の命を救う可能性がある原爆を使うことを選んだのです。

    70年不使用 幸運なだけ

     真珠湾攻撃があった時、私は4歳でした。ラジオのニュースで知り、兄と近所中のドアをたたいて、「ジャップが真珠湾を爆撃した」と触れ歩きました。

     幼少期を過ごした中西部ミズーリ州のカンザスシティー。街に車は走っていませんでした。ガソリンやタイヤは配給の対象だったからです。肉も軍に優先供給され、戦争中はずっとマカロニにチーズをかけて食べていた。軍に供出するため、たばこの包装紙からアルミニウムを集め、再生利用するために新聞紙を学校に持って行きました。

     米国は団結して戦争に立ち向かっていました。近所の家々には、戦死者が出たことを知らせる黒の喪章が飾られていました。終戦直後、原爆投下を非人道的だと非難する人はおらず、我々は戦争が終わったことをただ喜んだのです。

     原爆投下の是非は世代間で異なります。米国の学校では模擬裁判の授業がありますが、トルーマン大統領の原爆投下の決断を議論すると、多くの場合は「弾劾されるべきだ」との結果になります。これが今の若い世代の見方でしょう。

     70年前は違いました。ジェームズ・バーンズ国務長官は、大統領に原爆投下をこう迫ったのです。「戦争を終結させ、米兵の命を救う武器を持ちながら使わないならば、弾劾裁判で責任を問われるだろう」

     トルーマンは当時、原爆を使用しなければ弾劾され得る立場にありました。原爆投下の決断に、こうした状況が影響したのは間違いありません。

    「月6発の製造可能」だった

     日本の降伏が遅れていたら、どうなっていたか。原爆を開発した「マンハッタン計画」を主導した物理学者ロバート・オッペンハイマーは、軍の責任者レスリー・グローブスへのメモで、「1945年10月以降、1か月に6発の原爆製造が可能になる」と記しています。想像するだけで、恐ろしくなります。

     しかし、米国は終戦直後の調査で、焼夷しょうい弾を使った空襲後の東京と、原爆投下後の広島の破壊度は同程度と判断しました。どんな兵器が使用されたかは二次的な問題でした。「通常兵器と比べ、原爆は必ずしも決定的な兵器ではない」との結論が、その後の核兵器の大量保有につながったのです。

     ソ連の核実験成功(49年)でパニックに陥った米国は、核戦力の増強で対抗しました。水爆を開発、原爆を量産化しました。陸海空軍が核兵器開発を競いました。60年代初頭までに、陸軍は射程900~2000メートルの小型核搭載の砲弾を開発。米兵は発射後に即時退避し、核爆発から逃れるという代物でした。狂気の沙汰としか思えないようなことが起きていました。米国は今も推定で年間600億ドル(約7兆4400億円)を核兵器の維持に費やしています。

     広島と長崎への投下後、核兵器が70年間使用されていないのは、単に幸運だっただけ。朝鮮戦争で米国が原爆を使わなかったのは、山岳地への投下では十分な威力を発揮できず、兵器としての価値が損なわれると考えたからです。

     核に一定の抑止力はありますが、核抑止理論は「大量の核兵器保有が平和を維持する」という結論を導くために構築されたものです。現実には、核兵器が廃絶されない限り、核兵器が使われないという保証はありません。

     核兵器を保有する国がある限り、他の国も核兵器を獲得しようとする。保有すれば、小国でも大国に大きなダメージを与えることができる。いつかは、核使用が正当化されると考える国が出現します。他国からの攻撃で国の存立が脅かされていると判断すれば、核兵器を使うでしょう。弾丸を込めた銃を置いたテーブルで、ポーカーをしているようなものです。

     核廃絶に向けた正しい動きもあります。非核化地域が広がり、「核兵器は違法だ」と訴える国際的な世論も強まっています。多くの国が核兵器を製造する知識、能力を持つという現実の中で、核兵器の量を競い合う愚かさにも気づくべき時ではないでしょうか。

     Richard Rhodes 1937年、米カンザス州生まれ。エール大卒。米国の原爆開発史を描いた「原子爆弾の誕生」(86年)でピュリツァー賞受賞。「原爆から水爆へ」など核兵器に関する4部作などを著した。

     マンハッタン計画 第2次世界大戦中、米国が秘密裏に行った原爆開発計画。ピーク時には科学者ら約13万人が動員された。原爆3発が製造され、原爆実験の後、ウラン型原爆が広島に、プルトニウム型原爆は長崎に投下された。

    大量保有に疑問 歴史検証

     「終戦時に8歳だった私は、一発の爆弾が戦争を終わらせたと思った」

     この鮮烈な記憶が、ピュリツァー賞受賞作「原子爆弾の誕生」を執筆させたという。執筆時はレーガン政権下で、ソ連との軍拡競争が繰り広げられていた時代。核兵器の大量保有に疑問を感じ、歴史を検証することで教訓が得られるかもしれないと考えた。

     探求心は尽きない。1986年の出版後、小型機を手配し広島上空を飛行した。原爆を落とした「エノラ・ゲイ」の航路をたどるためだった。「空から見た広島は復興していた。だが公園や校庭では、草地の色合いが周囲と微妙に異なる部分があって、投下前には何か建造物があったことを示していた」。原爆で都市が破壊された形跡を感じ、「背筋がぞっとした」という。

     幼児期の虐待経験から、ローズ氏は「人間の暴力」について考えてきた。なぜ人間は暴力に訴えるのか。どうすれば暴力から逃れることができるのか。そして、究極の暴力である戦争、核兵器に行き着いた。核兵器廃絶への道筋はまだ見えないが、ローズ氏は「わずかでも希望を見つけたい。人間は賢明な生き物のはずだから」と語った。

    聞き手 ロサンゼルス支局 加藤賢治、写真も

    2015年08月07日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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