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    あの夏

    肺患い なぜか「乙種」合格…洋画家 野見山暁治さん 94

     私が東京美術学校を半年早く繰り上げ卒業したのは1943年9月。すでに戦局は日本に不利でした。

     中学時代に肺浸潤を患い、その後も再発、留年するという病歴があったのに、卒業の半年ほど前に受けた徴兵検査で、第一乙種合格に。兵力不足だったのでしょう。甲種や第一乙種は卒業即入隊です。「病気が再発しないかな」と思っていました。

     美術学校では教練をやらされましたが、みんなが兵士になるためのお芝居をしているようでいやでした。

     配給制で絵の具も乏しくなりました。変なもので画家は、自分がよく使っている色がなくなると絵が描けなくなる。それで僕は「生きている意味はない」と思うようになっていた。「どうせ俺は兵隊に行く。行けば生きては帰れない」という諦めもありました。

     卒業した年の11月には地元福岡の連隊に入隊。異様な光景を目にすることになるのは、それからです。

    殺し合い「私は嫌です」

    • 野見山暁治さん
      野見山暁治さん

     戦時中に二つの異様な光景を見ました。一つは、1943年11月に福岡の連隊に陸軍2等兵として入隊して、満州(現中国東北部)のソ連国境近くの前線に送られた時に見た景色。もう一つは、45年6月の福岡大空襲で、福岡の街が燃え上がる光景です。

     東京美術学校を43年9月に繰り上げ卒業して、福岡市の実家に戻りました。入隊前日、父の佐一が自宅で出征祝いの宴会を開いてくれました。

     あいさつをしろと言われましたが、言うべき言葉がない。ふと、ドイツの詩人の「我はドイツに生まれたる世界の一市民なり」という一節が浮かんできました。私も日本に生まれた一市民です。憎む敵がいなければ、殺し合うこともない。

     「どうして殺し合わないといけないんですか。私にはできない。嫌です」

     思わず叫んでいました。客の軍人が「貴様、もう一度言ってみろ」と軍刀を握っている。私は興奮していたんですね。会場は怒号と罵声で、めちゃくちゃでした。「死ぬんだから言わせてくれ」と、つい本音が出たんでしょう。

    前線 まるで灰色の棺おけ

    • 入隊するため福岡の実家に引き揚げようと、東京・池袋近くの下宿の後かたづけをする野見山さん(1943年)=野見山暁治財団提供
      入隊するため福岡の実家に引き揚げようと、東京・池袋近くの下宿の後かたづけをする野見山さん(1943年)=野見山暁治財団提供

     入隊してすぐに向かったのは牡丹江ぼたんこうのソ連国境付近です。雪ばかりの平原を列車で現地まで行った。列車の線路はそこで終わりでした。降り立った所は凍り付いた氷の世界。一面灰色で、何の色もない世界だと思いました。

     ソ連軍と日本軍が、約100メートル幅の川を挟んで対峙たいじしていました。まるで灰色の棺おけの底で自分が、うごめいているようでした。極寒の地で、脱走兵が出たほどです。到着して間もなく、胸の異常に気づきました。病気が再発したんです。

     40度以上の高熱が続いて、もうろうとした状態で、同年12月、当地の陸軍病院に入院しました。隣に「屍室ししつ」がある病室で、死ぬ一歩手前でした。

     転院予定の病院は満杯で、内地に戻ることになりました。福岡県古賀町(現・古賀市)のしょう軍人福岡療養所に移り、そこで終戦を迎えたんです。

     45年6月19日。約15キロ離れた療養所の屋根から、福岡大空襲を見ていました。地上からのサーチライトが交差して、浮かび上がる銀色の米軍機がしょう弾を次々に投下する。光の雨粒が、わーっと落ちていくのが見えました。地上に落ちると真っ赤な火の手が駆け上がり、空が赤く染まった。

     福岡市内には両親が住んでいて死ぬかもしれないのに、見とれていました。今となっては恥じ入るんですが、この世のものとは思えない美しさでした。幸い、実家は無事でした。

     この二つの異様な光景が、私の絵に影響していないといったらうそになる。無意識のうちに、何らかの形で出ているかもしれません。

     戦後、76年頃から、若くして戦争で亡くなった東京美術学校出身の画学生45人の遺族を訪ね歩きました。NHKの番組企画で、遺作の絵の写真を本にまとめるためです。この本をきっかけに97年、長野県上田市に戦没画学生慰霊美術館「無言館」が開館したのです。

     本に感動した同市の信濃デッサン館館主・窪島誠一郎さん(73)から、「遺作を展示する美術館を作りたい」と相談がありました。窪島さんの父は作家の水上勉さんです。それから窪島さんと二人三脚で再び遺族の方々を回り、苦労して作品を貸していただいた。

     画学生の絵は一人前の絵ではありません。でも入隊を間近に控え、それでも描きたかったという気持ちが、作品からオーラのように湧き出ている。美術館の棟上げ式の時、亡くなった学生らに、「おいできたぞ」と語りかけ、鎮魂の思いがこみ上げてきました。

     無言館では毎年6月に慰霊の「無言忌」を行っています。戦後70年たっても遺族は参加を続けている。私も、まだ戦争を背負っている、という気持ちが薄れることはありません。

    聞き手 西部本社編集委員 千田伸二  撮影 大野博昭

     のみやま・ぎょうじ 洋画家。1920年福岡県穂波村(現・飯塚市)生まれ。東京美術学校(現・東京芸大)卒。52~64年渡仏。58年に安井賞。78年に『四百字のデッサン』で日本エッセイスト・クラブ賞。2014年文化勲章受章。元東京芸大教授。

    福岡大空襲 1945年6月19日午後11時過ぎから約2時間にわたり、米軍の爆撃機B29が、福岡市中心部に、1500トンを超える焼夷(しょうい)弾を投下したとされる。同市史などによると、死者902人、行方不明者244人、負傷者1078人で、約1万2700戸が被災した。

    創作原点 父の「ボタ山」…石炭増産が義務

     野見山さんは福岡県の筑豊地区で育ち、生まれた時から炭鉱のボタ山に囲まれた。父・佐一さんは炭鉱を経営していた。

     戦時中、筑豊には大小約250もの炭鉱があり、終戦の1945年当時は、10万人以上の炭鉱労働者が働いていたという(福岡県田川市の市石炭・歴史博物館による)。石炭は、戦闘機や軍艦の材料となる鉄の生産に不可欠の燃料で、増産を義務づけられた。

     野見山さんが初期の代表作「廃坑」シリーズを描いたのは戦後の51年だが、ボタ山は絵の原点の一つで、作品のモチーフは父が経営していた炭鉱だった。

     東京美術学校2年の時に肺浸潤を再発。1年留年して43年9月に繰り上げ卒業した。同校の戦中最後の卒業生だった。

     1年後輩らは学徒出陣を余儀なくされた。同年の在学徴集延期臨時特例などの公布で学生の徴兵猶予措置はほぼ全面的に撤廃された。野見山さんが卒業した1か月後、後輩らは東京都四谷区(当時)の明治神宮外苑競技場で開かれた出陣学徒壮行会に臨んだという。壮行会を終えた学生は、徴兵検査を受け、卒業する間もなく戦地に赴いた。(千田

    2015年08月08日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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