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    あの夏

    大人の主張一転不信感…元国連事務次長 明石康さん 84

     戦争が終わった年、私は14歳、旧制秋田中学(現秋田高校)の3年生でした。

     あの夏は毎日、荒れ地をクワで開墾する勤労奉仕に駆り出されていました。

     玉音放送を聴いて感じたのは「これから何が起こるのか」という不安でした。

     でも2、3日したら「平和になったんだ。明るい時代が来るのかなあ」という希望も湧いてきた。

     それから2、3週間したら、今度は大人たちへの不信感が強まりました。

     鬼畜米英と声高に叫んでいた一部の先生や地域の指導者が「これからは民主主義の時代だ」と言い始めた。

     軍国主義礼賛からアメリカ礼賛に一変したのです。

     仲間たちと「大人は信頼できないなあ」と語り合ったのを覚えています。

     そして、日本の将来はお上任せではなく自分自身の頭で考えないとだめだ、民主主義や米国のこともいずれ勉強してみたい、と思いました。

    「戦前と決別」重光演説に感銘

     戦後、旧制山形高校を経て東大に入学しました。東大ではアメリカ科を選び、卒業論文は第3代米大統領ジェファーソンの政治思想について書いた。民主主義の源流を考えてみたかったからです。その後、ジェファーソンが創立したバージニア大学に留学しました。

     初めて見るアメリカはとにかくスケールが違った。工場も発電所も日本の2倍、3倍ではなく、20倍、30倍もある。何百倍と感じたこともありました。

     日本という箱庭的な国がこれほど巨大なアメリカと戦争をする。日本の指導者たちはなぜ、こんな無謀な選択をし、不毛で悲惨な戦争に国民を巻き込んでいったのか。日本はもっと大きな英知が欲しかった。

     アメリカではそんなことをしみじみと感じました。

     留学2年目の1956年12月には、巡り合わせで日本の国連加盟を見届けることになりました。大学院の参観旅行でニューヨークの国連本部を訪れる機会があったのですが、ちょうどその日が日本加盟の日で、重光まもる外相の加盟演説を傍聴することができました。

     重光さんの英語は流暢りゅうちょうではありませんでした。でも演説の内容は素晴らしかった。戦前の日本との決別を宣言し、今後は「国連の崇高な目的に誠実に奉仕する」と述べました。

     いま振り返れば、重光さんは国連に過大な期待をかけていた。演説の言葉は美しすぎたかもしれない。しかし各国の代表は温かく迎えてくれた。重光さんは感無量だったと思います。

    創る平和、日本の役割

     私はその2か月後の57年2月、国連の英国人幹部の熱心な誘いを受け、日本人初の国連職員として働き始めました。26歳でした。

     日本人である自分と国際公務員である自分との間に何ら矛盾を感じませんでした。日本国憲法と国連憲章の基本的理念、つまり平和主義と国際主義という理念が一致していたからです。

     こうして国際社会に復帰した日本は、国連中心主義(※)を掲げる一方、米国との友好・同盟関係を基礎として平和国家の道を歩んできました。この選択は正しかったし、それ以外の道はなかったと思います。

     そして日本人は灰燼かいじんの中から戦後日本を額に汗しながら築き上げていきます。その歩みは世界に称賛されるべきものでした。

     64年の東京五輪は新興国だった日本にとり、ある種の成人式、晴れがましい国際的な認知の場でした。

     また、日本は戦後、善いこと、誇れることをたくさんやってきた。アジア諸国にも賠償はきちんと出し、様々な形の援助も行った。

     急速な復興の背景には外的な要因もありました。

     日本の周辺では50年に朝鮮戦争が始まり、60年代から70年代にかけてはベトナム戦争が起きた。二つの戦争は日本に特需をもたらし、結果的に米国による欧州の経済復興計画「マーシャルプラン」のような役割を果たしました。

     また日本は米国に安全保障を頼り、経済に集中できた。これもラッキーでした。

     今後の日本については二つのことを言いたい。

     まず歴史認識についてです。日本は戦前の拡張政策でアジアの周辺諸国に言葉で表し得ないような辛苦を与えた。我々は加害者でもあった。そうした不幸な歴史の事実の前では今後も謙虚であるべきです。

     また、憲法の精神は大事ですが、9条を守り、平和を祈っていれば平和が保てるわけではありません。日本はそうした「祈るだけの平和」ではなく、「創る平和」を目指すべきです。

     「創る」というのは、途上国の開発や人道支援、国連平和維持活動(PKO)への積極的な参加を通じ、世界の安定化のために一汗も二汗もかくことです。

     日本はこうした取り組みを通じ、21世紀が共生と共栄、和解と信頼の世紀になるよう努力すべきです。

    厳しい反省、今後も必要

     明石さんは戦後国際人の草分けの一人だ。日本人として初めて国連職員になり、事務次長まで務めた。

     明石さんはまた、紛争現場の厳しさ、平和構築の難しさを誰よりも知る戦後日本人でもある。

     旧ユーゴスラビアのボスニア紛争では国連の責任者として人道目的の空爆を十数回許可した。多くの犠牲を生む恐れもある武力行使の決断である。戦後、これほど厳しい選択を迫られた日本人は他に誰もいない。

     そんな明石さんが「戦後70年」という言葉に違和感を感じるという。

     「単なる戦後ではない。日本は悲惨きわまる戦争に敗北した。それから70年たつ。敗北後70年なのだ。それを肝に銘じておきたい」

     明石さんは中でも「戦前の日本の国家としての選択に関しては厳しい反省を続ける必要がある」と話す。

     気がかりなのは、日本の国民、特に若い人たちが現代史、近代史を知らなすぎることだという。

     未来を語るのは大切だが、一方で敗戦の事実とそれにまつわる悲劇を忘れないこと。不毛な戦争の教訓を語り継いでいくこと。明石さんの言う通り、それは今後の日本にとって重要な課題になる。

    (大塚)

     あかし・やすし 1931年、秋田県生まれ。国連の仕事に40年間携わり、カンボジアと旧ユーゴスラビアの国連平和維持活動(PKO)の責任者も務めた。現在は国際文化会館理事長、スリランカ問題担当の日本政府代表。

     ※国連中心主義 国連加盟の翌年の1957年9月、外務省は初の外交青書を発表し、外交の3原則として「国連中心」「自由主義諸国との協調」「アジアの一員としての立場の堅持」を掲げた。現実には二つ目の原則、特に対米協調が日本外交の基軸となった。

    風化しない記憶

     「戦後70年」企画担当 編集委員・柴田文隆、平博之

     大きな岩石も、日光や風や雨の力を受けて砕けてゆく。時が及ぼすこの作用が「風化」だ。

     私たち人間の記憶も風化する、といわれる。

     戦後70年。広島・長崎の被爆者の平均年齢は80歳を超え、戦地の悲惨さ、空襲や引き揚げの無残さを語れる世代も静かに消えつつある。日本、日本人が背負ってきた記憶を私たちはどう受け継げばいいのか。

     16日間休まずお届けしたこの連載は、読者に「あの夏」を追体験してもらおうと考えた企画だった。そのために証言と写真をたくさん集めた。血涙が乾き切っていない話もなるべく載せることにした。

     人間の記憶には写真のような正確さはない。だが人々が叫び、泣き、見た記憶は、心に刻まれた真実だ。

     登場いただいた16人の年齢は平均86・88歳。人間の記憶は簡単に風化したりしない、と教えられた。

    2015年08月17日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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