ないはずのクジラを描いた「人生の絵の具」

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 先日、仕事の帰りに夜の上野公園を歩いていました。

 国立科学博物館の前を通りかかった時、巨大なクジラの像が見えてきました。

 ああ、この像、確か子どもの頃もあったなあと思い出しました。

 調べてみると、私が子どもの頃にあったのはザトウクジラだったようです。その後、新しくつくられたのが、現在のシロナガスクジラの像のようです。

 子どもの頃の記憶というのは曖昧で、なんだか頼りないような気もしますが、しかし、鮮明に覚えていることがあるということは、それだけ強烈な印象を受けたのでしょう。

何時間も並んで見た「月の石」

 国立科学博物館のクジラの像は、前を通りかかる時にはもちろん目にして一つのランドマークのようになっているわけですが、それ以上に重要なのは、行列を作って待っている時のある種の視覚的効果です。

 子どもの頃、国立科学博物館のまわりの大変な行列に並んで、何時間も待った記憶があるのです。アポロが持ち帰った「月の石」を見るための行列でした。 

 国立科学博物館で「月の石」が展示されたのは1969年の11月だったようです。私は7歳だったわけですから、記憶が曖昧なのも仕方がないのかもしれません。

 とにかく何時間も並んで、ようやく見た月の石が、キラキラと輝いていたのを今でもよく覚えています。

 大人になってから冷静に考えれば、石は石で、そりゃあ組成やかたちは少しは違うかもしれないけれども、わざわざ何時間も並んで見る意味があるのかなどと思ってしまいそうですが、当時は感激したものでした。

 何しろ、アポロの月着陸が人類の歴史において画期的なことと子ども心にもわかり、その偉大な成果を象徴する「月の石」は、まさに未来からの使者のように感じられたのです。

 当時は、まさかその後、宇宙開発が停滞の時代に入るなどとは夢にも思わず、すぐにも宇宙旅行や宇宙ホテルが実現するものと思っていました。

 日本も高度経済成長で、明日は今日よりも明るいと信じることができました。そのような時代の勢いのようなものを子ども心に感じていて、そんな輝きを「月の石」に託していたように思います。

ないはずのクジラ像を見た?

 ところで、その行列の時にクジラの像をずっと見ていたから飽きなかったのだとずっと思い込んでいたのですが、クジラの像ができたのはもう少し後のようなのです。ですから、月の石を見るために行列していた私がクジラの像を見たはずがないようなのです(ただし、当時、クジラの骨格標本のようなものがあった可能性があるそうです)。

 もともと、人間の記憶は「編集」されてしまうことが知られています。

 年月の経過の中で、自分の過去の経験をわかりやすく把握しやすいように整理して収納していくために、客観的な事実からずれる部分が出てきてしまうのです。

 クジラの像は、子どもにとっては大変興味深いものなので、行列をしている時に眺めていると飽きずに済むのです(国立科学博物館の方々がそのような意図で設置されているのかどうかはわかりませんが)。だから、自分が「月の石」を見るために並んでいたあの時間にも、クジラの像はあったのではないか、いや、あっていてほしいという「願望」が、記憶を編集してしまうのでしょう。

豊かな人生はたくさんの経験から

 肝心なのは、いくら「編集」すると言っても、その素材となる記憶自体は、やはり、経験から得るしかないということです。

 いわば、経験は、人生という物語の絵を描くための「絵の具」のようなもの。パレットの上に絵の具がたくさんあるほど、それだけ豊かな絵を描くことができるのです。

 あの日、ずっと行列して、館内に入ってもぐるぐるといろいろなところを回されて、ようやくたどり着いた「月の石」。

 展示室の真ん中に、明かりに照らし出されてキラキラ光っていたその姿が、心にくっきりと刻まれています。 

 翌年、「月の石」は大阪万博でも展示され、現在は国立科学博物館に常設展示されています。

 今でも注目を浴びる存在ではありますが、子どもの頃見た、まるでロックスターのように注目を浴びるあの姿は、今でも一つの絵の具として私の人生の素材となっているのでありましょう。

人生の絵の具をくださり、ありがとう!

 クジラの像も、何度も通りかかり、そしてその姿を目にすることで、自分の人生という絵の素材になっています。

 こう考えていくと、やはり、経験というものはしておくものだなと思います。そのような経験が脳の中で蓄積され、熟成され、編集されて、私たちの人生を彩っていくわけですから。

 国立科学博物館では、学芸員さんたちが趣向を凝らした展覧会を引き続き企画してくださっていますが、今育ちつつある子どもたちが、経験という絵の具をたくさんパレットの上に並べていくことを願わずにはいられません。

 子どもたちは「ありがとう」と言わずに巣立っていくものですが、私も、あの頃「月の石」の展覧会を企画してくださった方々や、クジラの像をつくってくださった方々に「ありがとう」と言っていません。

 今この場を借りて、心からの感謝を表したいと思います。

 人生の絵の具をくださって、ほんとうにありがとうございました!

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茂木 健一郎  (もぎ けんいちろう) 脳科学者、ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。1962年、東京生まれ。東大大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。クオリア(感覚の持つ質感)をキーワードに脳と心を研究。最先端の科学知識をテレビや講演活動でわかりやすく解説している。主な著書に「脳の中の人生」(中公新書ラクレ)、「脳とクオリア」(日経サイエンス社)、「脳内現象」(NHK出版)、「ひらめき脳」(新潮社)など。近著に、「成功脳と失敗脳」(総合法令出版)。

410378 1 世界を脳から読み解く 2018/12/24 03:00:00 2018/12/24 03:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20181219/20181219-118-OYTPI50083-L.jpg?type=thumbnail

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